第14回 青山俳句工場向上句会選句結果(+つっこみ句会選句評)

(長文注意!いつもより長い!)

向上句会危機管理委員会を発足させる必要があるだろうか? と思わせる今回の向上句会でありました。俳句は確かに遊びでやっています。が、しかし、テレビ見てケラケラケラと笑えない「わたし」だからこそ、こんな遊びをわざわざ選んでいるわけです。俳句は真面目な遊びなのです。句会のとりまとめもときどき面倒くさくなりますが、面倒くさくても真面目に遊ぶのが好きなので、好き好んで七面倒くさい遊びをしています。句会とりまとめという労働はわたしにとっては、真面目に楽しい遊びであります。だから、だから、だから、「付き過ぎ」からは卒業して欲しいのです。当たり前のことをわざわざ言わんで欲しい。当たり前の句を作ってしまったら、わたしは自身の不明を恥じます。付き過ぎの句を選んでしまったら、眼力不足を嘆きます。必ずしも五七五である必要はありませんし、破調もオッケーですし、季語もなくてもよろしいのです。思いっきり伝統していて、他を圧倒してくださることも大歓迎です。ルールはひとつ、「向上心」のみです。
青山俳句工場の通常句会、最近また、徹夜でやっております。
夜中の二時とか三時に、酒も飲まずに「この句はぁ」とやってます。
工場長は相変わらず「ように」とか「ごとく」で作っていて、また「ように俳句だ」と言いながら、つい、宮崎斗士の句を選んでしまう。
「ように」「ごとく」で作るのはムズカシイのです。この句を選ぶのはシャクだ、と思いながらも、「納得の一句」を選ばされてしまいます。力技です。中村安伸の頭の中はねじれているのだろーか?と、ときどき思います。日常の死角をどうして彼は見付けられるのだろう。チノボーのセンスに思わず舌を巻きます。文学的紋切り型を寄せ付けぬ千野帽子はブンガクを職業にしているプロだと納得します。白井健介は実は足場を伝統にきちんと置いています。伝統俳人の顔を持ちながら、われら俳句工場の一員として、切磋琢磨しています。山口の俳句はメチャクチャです。メチャクチャだけれども、わたしは意味の流れ星を飛ばしたい。ごく稀に成功します。たいていは失敗に終わっています。
みんなまじめに俳句してます。一緒に遊ぶ?
とゆうわけで、試行錯誤第一段「つっこみ句会」を開催しました。
いつもより、読みが深くなっていると思います。
次回もただいま準備中です。ぜひ、ご参加ください。

向上句会とりまとめ:山口あずさ


投句:宮崎斗士、中村安伸、白井健介、摩砂青、千野帽子、後藤一之、足立隆、姫余、にゃんまげ、nao、AIR、しんく、べる、またたぶ、肝酔、愚石、桜吹雪、紫藤泰之、秋、松山けん太、城名景琳、船外、天乃晋次、吐無、白鳥 光良、満月、蘭丸、鈴木啓造、山口あずさ

選句協力:鯨酔、糸日谷麻衣子、うまり

つっこみ感想協力:山本一郎、越智、まひる



全体的な感想

吐無:あまり感動的な句に巡り会えなかった。鑑賞力が追いついていけないのかもしれない。

健介:コメントする意欲が次第に低下していく……原因は不明(?)。「でも別に誰も困らないよ。むしろその方がいい」なんて言われるだけかな。きっとね……

うまり:すかっ、と、入ってくるものが少なかったです。

またたぶ:チノボーさんの逆選を順調に稼ぐ私。第一回帽子向上賞が中村さんの手に渡ってしまった今、狙い目は帽子逆選賞しかない。

べる:はじめて参加します。まだよく分かっていません。切断されないうちに投稿します。

満月:まず書いてみる、参加してみるのはいい。しかしそこで不評を得たなら、その結果をもとにもう一度その句の発生時点にさかのぼって、そのときの感触から書き起こしなおしてみることも必要かと思う。素材が駄目だとわかればその手の素材は断念する。好調も不調もあるのは当然だが、最近の向上句会の不調には、いろいろな意味での断念の欠如が大きいような気がする。俳句は断念することによって謎を提示する「芸」だと思うのだが、何を言われても不感症であるかのような放漫さに満ち、「向上」の名に値しない。私は先生ではないので「ご指導」はできなが、書いたことに関しての説明は出来る。結果を見てはい終わりではいとも情けない。もっと食いついてほしい。

景琳:花や蝶がでていたので、春が来たんだと感じた。56それぞれ、あっちこっち向いていて、変で面白い。

:此度は選ぶのに迷いました。己のことは棚に上げ粒ぞろいです。こういう時はとても楽しい選句となります。

けん太:自分が選句した句を他が誰も選んでないとき一瞬ショックを感じます。感性や経験などがおかしいのかなと・・・。第1回から参加させていただいておりますが、今回ほど低調なことはなかったように思いますよ。そう思うボクはおかしい・・?この低調から抜け出したいと、ボクはいまもがいています。

船外:青山は、酷評の愉快さでもっているとか。選は二の次とのよし、よかった、よかった。

AIR:様々な句があり、楽しめました。句を書いたり、読んだりしていると、新しい自分を発見できることを知った今日このごろです。


13点句

桜咲くどこか訂正されながら   中村安伸

特選:帽子 特選:桜吹雪 特選:またたぶ 特選:べる 泰之 秋 光良 あずさ 満月 

帽子:「どこか」にはやや疑問ながら特選。
またたぶ:「どこか訂正されながら」が普遍的な味わい。やるせなさが奥にありながら、上五との出会いでじわりと明るくひろがる。
あずさ:ええええ、ここも訂正すんのぉ?
満月:そうなのだ。きっと別の流れの世界が隣にあるのだ。少しずつ訂正されて、私たちは偶然この世で一緒になる。何が正しいかなんて、そこでは無意味な問いなのだ。なぜなら桜自身、訂正されつつ咲いているのだから。<組長>の迫力が勝って第2位。
桜吹雪:今回はこれが秀逸。 満開の桜を見るたびに心に残る過去の桜と眼前の桜の間に埋められぬ違和感のようなものを感じていた。「どこか訂正されながら」のフレーズにそんな気持ちを言い当てられた気がした。
泰之:桜は「国花」とまで陰口たたかれる、八方美人かつ主体性のないヤカラだから、きっと嬉々として万人の訂正要求に応じることでしょう。そんな桜の優柔不断な一面がうかがえました。     
秋:毎年桜を楽しみに見ますが、年毎に違った思いで眺めます。今年はどんな思い出眺めるだろうかと、開花が近くなると思います。そんな想いを訂正としたところが、すはらしいと思います。
べる:夜桜は美しくてなんだか自分の存在を訂正されているような気になります。
つっこみ句会選句評:
あずさ:やはりここは、最高得点句から取り上げて行くべきでしょうね。発作的にはじめているので、だんどりがなくてごめんなさい。
ところで、この句、わたしはとても気に入りましたが、選らなかった方のご意見も伺いたいです。「どこか」に対する賛否両論もお待ちしてます。
山本一郎:「訂正される」という言葉自体の新鮮さ、さらにそれを「花が咲く」ことと結びつけた作者に感服(古い言葉!)しました。
さて、「どこか」ですが、あまり意味がないように思います。単なる語呂合わせか逃げたかというような気がします。でも、「どこか」を意味ありげに使ったらかえって嫌らしくなる。「なぜか涙が出ちゃう」の「なぜか」のようにね。さして意味がないところで救われていると思いました。後は蛇足ですが、「訂正されながら咲いている」というのは、花が咲くことへの私の感覚とはちょっと違っています。私の感覚では「花が咲く」という行為は「何かを訂正している」という感じを受けます。
帽子:「どこか」への疑義を感じて、その旨句評に短く書いておいたのですが、この山本さんのコメントは鋭く、たいへん教えられました。なるほどそういうことか、といった感じです。花が咲くことを、なにかを訂正している感じ、というののほうは、これは目から鱗でした。なるほどそういう見かたもアリ、ですね。

10点句

日溜まりへ下りるほかなき観覧車   またたぶ

特選:船外 特選:光良 特選:けん太 景琳 にゃんまげ あずさ AIR 

満月:<下りるほかなき観覧車>はいろいろな作り方が出来そうだ。<日溜まり>へ下りるのは気持ちがいいと思うのに<ほか>を求めている。なまぬるい日常を嫌ったか。そこを表現するには<日溜まり>ではインパクトに欠ける。
AIR:すごく気持ちの分かる句でした。
景琳:もっと、観覧したいが終わり、デスね。
船外:下りるほか、ありませんなあ。なるほど。ふーん。
あずさ:観覧車の天辺で記念の口づけをしよう!
にゃんまげ:強風の日の観覧車もまた楽しかった。
けん太:大阪駅の横の観覧車は休日となると長い長い行列ができます。ボクも一度乗りましたが、思ったほど視界は広がりません。でも、一人で乗ると寂しいよ。
つっこみ句会選句評:
あずさ:観覧車は近頃ブームなのだそうです。都会の夜景にはまるし、絶叫マシンのようにすぐに厭きられたりしないし。そんな記事が新聞に載っていて、記事の終わりの方に、でも観覧車から降りてくる人はなぜだかみんな俯いていると書いてありました。思い当たるふしがありますよね。この句はそのあたりをうまいこと言っていると思います。あと、ちなみに、かつて読んだ辺見庸のエッセーによれば、観覧車に乗って一周すると一日長生きするとのことです。右回りでも左回りでもいいらしいよ^^!。
紫藤泰之:作句歴4ヶ月。結社にも属さない未熟且つはみだし者ですが、向上句会に参加させてもらっています。さて、この句ですが、私は取りませんでした。「ほかなき」が気になったからです。確かに観覧車が下りるのは日溜まりであって、{ここではないどこか}ではありませんその、どこかあきらめに似た雰囲気を伝えようとする意図は分かります。しかし「日溜まりへ下りる・ほかなき・観覧車」と断定してしまうと、理屈が前面に立ちすぎて、句の雰囲気が崩れてしまうのではないでしょうか。また別の見方をすれば、「ほかなき」という強い主観的措定に対して、「日溜まりに下りる」と「観覧車」の関係は、あまりにまっとうすぎる気がするのですが、いかがでしょうか。
あずさ:確かに「ほかなき」って理屈っぽいかもしれませんね。ただ「日溜まり」というふつう気持ちのいい場所に対して、ネガティブに「下りるほかなき」と言ってみせたところは技アリだったと思うのです。「観覧車から下りる」、イコール、「日常に帰る」なわけですが、そこは日溜まりなわけで、、、理屈っぽいとはいえ、わたしの好きな感覚です。

9点句

組長と呼ばれるたびに白椿   宮崎斗士

特選:満月 特選:泰之 特選:青 秋 あずさ 帽子 逆選:蘭丸 

満月:「組長!」・・ふふ、この登場人物はいまごろ白椿と化している。間違ってもとなり組の組長が行事か何かの際、呼ばれるたびに白椿の下を走って・・などという想像をしないでほしいのだが・・・きっと出るなあ、そういうコメント・・・
泰之:「組長」と初手に置かれると、椿は椿でも「椿油」を思い浮かべてしまいます。組長は昔気質のヒトだから、やっぱり毎朝椿油で頭固めているのでしょうか。はにかみ屋の組長の匂いが漂っているようです
蘭丸:この組長って、やくざの親分? 逆選にしたら、お礼参りにこられそうで、な、なんかオッカネエなあ。でも、もうえらんじゃったもんね。極道俳句に敬意を表して、逆選(ぼくの場合、逆選にする句はどこか、チョット好きな句なのです、あしからず)
あずさ:好きでなったんじゃない。仕方なく跡を継いだのさ。
帽子:上五がちょっと誘い笑いになってて残念。
秋:組長なら白椿が決ってます。社長なら金雀枝か、先生なら白菊かしら。???
つっこみ句会選句評:
一郎:私山本一郎は投句していませんが、つっこみ句会には参加させてください。いいですよね。投句しなかったわけは最近自分の頭が俳句の頭じゃなくなって、俳句が作れなくなっているからであります。で、この句ですがたくさんの支持を集めていますが、私にはその良さが全く分かりません。この句のどこがいいのだという感じ。暴力団の組長が白椿だというのでしょうか?それだと組長をほめすぎだと思いますが、そのほかのの解釈が思いつきません。組長=白椿、百歩ゆずってたとえぴったりだったとしても、「うまいうまい、チャンチャン」という以上のものがあるとは思えませんがどうでしょうか。 あずさ:山本さん、大歓迎です。よろしくお願いします。わたしも俳句頭になかなかなれなくて困っています。。--;
ところで、この句ですが、わたしは「組長!」と呼ばれるたびに、組長の頭の中に白椿が咲く、と解釈しました。ポストが人を作るなんていう言葉がありますが、「組長!」と呼ばれない限り、彼は組長的キャラクターじゃないのかもしれない、などと考えました。それで、わたしのコメントは「好きでなったんじゃない。」などというものになったのです。組長というのは、恐らく世襲された組長で、この組長にはもしかすると組長の適性がないのを無理にやっているのかもしれない、ゴッドファーザーになりたてのアルパチーノetc.いろいろ想像させてくれる一句でした。
帽子:山本さん、こんにちは。ぼくのコメントを見ていただければわかるように、採ってはいてもこの句にはきびしいです。「上五が誘い笑い」とだけ書いて、ぼくはいいことひとつも書いてません。山本さんのおっしゃるとおり、「よくできました、チャンチャン」て感じがしてしまうのはしょうがない。じゃあなんで採ったのか。はっきり言って規定の選句数を満たすためです。向上句会でも「今月は特選採れませんでした」とか「並選の数を減らしました」などという選者がいますが、句会なんてゲームなんだから選句の数くらい守れよ、と思います。いいじゃないですか、採っといて文句つけちゃえば、て思いません?
あずさ:そうですね。わたしも向上句会に限らず、どこの句会でも規定数は採るようにしています。ただ、人によっては、これ以上句を採ることに抵抗を感じるという人もいるのではないかと思います。それぞれの美意識でかまわないのではないかと思いますが、前に注意書きを書いていなかった頃に、ご自分の句を採られる方がいて、これはいささか閉口しました。(注意書きを必要とすることも正直言って少し情けないけど。。。)
ところで、みなさん、遠慮せずにご発言ください。(めんどうで発言しないだけかもしれませんが。。。)
満月:私がこの句から感じたのはまさしくマンガそのもの。句が上質だなどとは間違っても思っていません。ここのところの青俳の不調に輪をかけるような今回の選句リストを見ていると、えいっと一発単純な構図でスカッとしたかったというのが本音です。このスカッと、もそのときの気分でこれじゃ余計いらいらする場合もあることを自分で認識した上での選です。ではなぜわざわざ特選か。あんまりくそまじめに選をするのがばからしくなったことが第一。<桜咲く・・>を2位にしたのは、はやり<どこか>のあいまいさがしゃきっとしなくて、私のスカッとしたい気持ちに合わなかったためです。で、この句です。あずささんと似たようなことを私も考えました。この<組長>は本質的には<白椿>的人間なのである。しかしながら与えられた社会的役割というものがあって、<組長>であらねばならないわけです。この男?が素顔の<白椿>的であるとき、ふと何気なく向こうから声がかかる。「組長!」・・・そのとき、本来の白椿であったがゆえにそれを意識しなかった組長は、はっとわれにかえり、<白椿>と<組長>という二つのアイデンティティの間で一瞬の葛藤を演じる。あわてて<白椿>を隠そうとしたとき、それは彼をからかうように大きく前面にどアップになり、かわいそうに<組長>はいたいたしいほどうろたえている。・・・とまあ、こんなマンガな光景が私の前に展開したのです。くそまじめでつまらないあいまいでしゃきっとしない句より、今回はマンガが1位!ということで特選とは相成りました。・・しかし、こんなにたくさん点が入ると予想していれば避けたのに。。最後に。多くても自分が選句した句しかコメントを付けない人が多いから、チノボー作戦は有効かもしれない。

8点句

サッチモといふ名のパン屋花の風   白井健介

特選:斗士 特選:吐無 桜吹雪 景琳 しんく けん太 

斗士:「サッチモといふ名のパン屋」渋い設定。下北沢とか祐天寺あたりに実際にありそう。「花の風」との取り合わせもしなやか。見事。
満月:<花の風>が惜しい。<サッチモという名のパン屋>というだけである雰囲気も獲得しているし、音やリズムや匂いや風まで感じる。そこへ<花の風>では単なるアナロジーだ。
吐無:こんがりと焼けた色、ふっくらとした感触、いいパン屋さんにちがない。きっと、主力商品はあんパンだろう。花の風にピッタリあって、春風駘蕩のふん囲気が伝わってくる。主人はアームストロングみたいなかおをしているのかもしれない。
けん太:サッチモだけで成り立っている・・・。「花の風」は安易。
あずさ:パン屋のご主人がファンだったのでしょう。
しんく:わたせせいぞう的世界。サッチモは「グッド・モーニング・ヴィエトナム」からのミュージック・ヴィデオが好きでした。
景琳:花の風とパンの香りは気持ちいい。
桜吹雪:花びら交じりの風にふかれるパン屋の景にサッチモという響きは快い。素直な作りの句。
鯨酔:爽やかな情景、心和む情感。動きのある季語が利いています。
つっこみ句会選句評:
あずさ:この句では、サッチモ、がポイントでしょうが、このサッチモというのは動かないでしょうか?サンジェルマンという名のパン屋も世の中にあるみたいだけど。。
斗士:「サッチモといふ名のパン屋」というフレーズは、十分にひとつの世界観を伝えてくれている。そしてその世界観は、すべての他の人名、例えば「ニクソン」とか「ファーブル」とか「ガウディ」などなど、と代替がきかない独特な面白いノイズを含んでいると、僕には思える。その独特さが、僕には心地よかった。「パ ン屋」との相性が抜群だと感じたわけだ。でもこれは多分に個人的感覚だから、人によっては、もっとしっくりくる人選があることだろう。

春愁にあらず鉛筆落下症   千野帽子

姫余 斗士 吐無 船外 光良 啓造 一之 またたぶ 

あずさ:「鉛筆落下症」は悪くないと思う。春愁という言葉を出して説明になってしまった。
斗士:「破傷風」ってカッコイイ病名だなあ、と前々から思っていたが、「鉛筆落下症」というのもなかなかのもの。
またたぶ:べたべたの春愁句を卒業したら、こういう心憎い詠みへ進みましょう、という手本句。
船外:鉛筆落下症、重症のようで。
姫余:鉛筆落下症がおもしろいと思った。
満月:春愁と鉛筆落下症がついているので、<にあらず>が言い訳的わるあがきになってしまった。
うまり:芯がね。心配になるのよね。中の。折れてると、削っても削っても、折れてる。
健介:折れ芯になっちゃうよって注意されると気にした私。
つっこみ句会選句評:
あずさ:春愁と鉛筆落下症の付き具合が問題だと思うのですが、いかがでしょう?
斗士:「春愁にあらず鉛筆落下症」について。「鉛筆落下症」、頻繁に鉛筆を床に落としてしまう病気、と解釈した。独特のアンニュイ感が漂っていて面白い病気である。「春愁」は、たぶんそのアンニュイ感をわかりやすく説明するために持ってきたのだろう。確かに「鉛筆落下症」をいきなり持ってきて、全く違うものと取り合わせたら読む側は戸惑ってしまうかも知れない。「鉛筆落下症」を、きちんと印象づけるという意味で、「春愁にあらず」成功しているのでは。
満月:ここなんですね。自分がアレルギー的過剰反応をしてしまってることに反省を覚えるのは。<春愁>と<鉛筆落下症>はつきすぎという方向で見てはこの句の一番大事な物を見失っている。互いが互いのイメージを引き立て合ってある雰囲気を作り出していると受け取りたかった。最初に読んだときもそう思ったはずなのにこんなコメントを付けてしまったのはアレルギーが自分を支配してしまっていたから。これは大変まずい。この<あらず>は言い訳でも悪あがきでもなく、<春愁>という言葉に感じられるある種の自己陶酔を断ち切ろうという操作。しかし私は「悪あがき」という感想を書いた。なぜだろう。<鉛筆落下症>に抵抗感を感じたようだ。造語はいい。けどこの<・・落下症>は何にでもキャッチフレーズを付けてしまう風潮(自分もやるけど)にいささか食傷している部分にすっぽり入ってしまったのだ。そういうタイプのちょっとしたアイデアと感じた。俗の文芸である俳句ならこういう表現を貪欲に取り込んで行くことはむしろ必要なことに違いない。しかし・・・しかしどうしてもこの語が「ちょっと思いついたしゃれたキャッチコピー」「あら素敵。どう、いいでしょ」と言っているように感じてしまう。そうとうビョーキなのだろうか。。。 うん、つまり、言葉の実質的なイメージや言葉が表す実体?に対して演出の方がうんと分量が多い。こういう書き方は新しい方法と思うのでそれ自体を否定するわけではないが、ときどき演出過剰や演出の仕方に体質的に受け付けない部分を感じることがある。その臭みが過激な書き方をさせた、ということかな?
あずさ:シニフィアンとシニフィエなんてゆうムズカシイ言葉を思い出しました。意味するものと意味されるもの、ということですが、春愁ではない「鉛筆落下症」が意味するもの、この言葉が指し示すものは何か? 鉛筆落下症にもいろいろあって、よくあるのは、いわゆる「春愁」だったり、故郷を思ったり、恋人を思ったりというのがあるが、たとえばそれ以外の何かなのか。「春愁」に「あらず」と言ったことによって、「鉛筆落下症」との付きを離すというのは確かに発見かもしれない。が、やはり小細工感は免れないと思う。
思うにこの句、「春愁」を詠んだのではなく、「鉛筆落下症」を詠んだ句なのだろう。鉛筆落下症という未だ定義されていない言葉の、第一歩として「春愁にあらず」と受け止めることができる。今はじまる鉛筆落下症の旅。問題定義として、面白い句だと思います。
満月:<春愁>で感じたかったもろもろを<あらず>で断ち切られ、<鉛筆落下症>のみが前面に出てくる。ここで私の感じたかったはずの春愁はどこか遠くの靄か霞のかなたに去って、<鉛筆落下症>だけが主張する。このいまだこなれていない言葉の中で、鉛筆は人格?としての意思の力を持ち得ていず、人間に落下させられる存在(登場人物の心身の症状そのものとしての・・落下症)、あるいは自然の中で引力に落下させられる存在(登場人物の不注意の産物としての、意思を持たない物に起こらせられるそれ)である。この落下には残念ながら<春愁>そのものの意思は感じられないとともに鉛筆の意思も感じられないのだ(落下させる登場人物の存在さえも春愁とともにすでに去っている)。ここで私は<春愁>にふたたび立ち返って、今度は体感でなく知の部分で、辞書的意味で「考え」なければならなくなる。体感を得られるはずの<春愁>に去られ、今また鉛筆が自ら意思を持って動き始めない状況で、私の「アニミズムが欲しい病」はいらいらの頂点に達したのだろう。落下症という症状を持つ、ある種の人格であるところの鉛筆、という作り方がなされていたならもっと素直にすとんと入ってきたにちがいない。意味を頭で考える読みは川柳の領域だろう。で、川柳として読むと・・・やっぱり<鉛筆落下症>の生硬な造語に頼る構成が気になるのだ。本日の読みでした(^^;。
(あずさ:今はじまる鉛筆落下症の旅。問題定義として、面白い句だと思います。)
いろいろいちゃもんを付けましたが、私も新しい言葉や表現に飢えています。

7点句

ヒヤシンス不整脈などありまして   肝酔

満月 姫余 桜吹雪 光良 またたぶ べる しんく 

鯨酔:「それはいけませんな、どれどれ・・・」思わせ振りな所がいい気分です。
うまり:「ヒヤシンス」という字面が、もう、不健康な感じがしますものね。
桜吹雪:「宇宙是れ洗濯板にヒヤシンス」という句がありまして、そのイメージが強烈な私としましては、不整脈はちと弱いとも思うのですが、中七の転換をさりげない口語体でしめくくったところに一票。
姫余:おもしろい作品でした。
またたぶ:この手は一度しか使えない。でも巧い。
健介:それはいけませんですなぁ…。
あずさ:ヒヤシンスと不整脈はいいと思う。「などありまして」がよくない。
満月:ヒヤシンスはどうしてその花形と名の音感が全然違うのだろう。この音感と不整脈は付きすぎと思うくらいシンクロする。<などありまして>のとぼけた現世逸脱がヒヤシンスの音感に助けられて、不思議に一句をぴーんと自立させている。しかし<ありまして>はそろそろ賞味期限切れが近い。
しんく:灸甘草湯などいかが。
べる:不整脈とヒヤシンスの組み合わせで不整脈の状態が分かりそうです?!
つっこみ句会選句評:
あずさ:などありまして、が許せるかどうかが問題だと思う。
帽子:もちろん、許してはいけないのだと思います。だって1970年代中盤のフォークって感じなんだもん。
あずさ:1970年代のフォークもあれば、茶色い戦争なんかもあったかもしれない。。。
満月:この、70年代フォーク、ひいては演歌という認識、最近ちょっと考えています。たしかに日本的な湿った叙情の共通意識に訴えることで簡単に共感を得ようとする句には腹が立ちます。また、作者自身がそこに溺れているものはおのずと作品としての価値を持ち得ないでしょう。しかし、「きょうびの若者の感性」などという無謀な言葉でくくってしまうと、それは逆に自分の拠って立つ地面を否定している、とかどろどろの情緒の中に引っ張り込まれるのを怖れるあまりすべてをバーチャル仕立て、手触りのないぺらぺらかさかさの作り事として、自らをも虚の存在であるかのように描こうとしている、という側面が見えます。それが現代そのものだということかもしれませんが、実はそれにも飽きる部分が増えてきた。世代の違う私は、前時代の感性と思われても、受け継いできたある部分を伝えて行かねばと思うことがあるのですね。それは意識していなくてもふっと頭をもたげて句の中に入り込んでいる。そういうふうに出来た句を見ると、ああ、私はこれを書いて行かねばならない、と思う。この「ふっと入っている」ところが大変にくせものでもあるわけですが。で、この句。なぜだか私はこの<などありまして>からは全然70年代フォークの臭いを感じないのですね。なぜでしょう。たしかに加藤登紀子の歌はあった。でもその時代にすでに子供ではなかったせいか、「中也のパクリ」という意識のまま、面映ゆいまま体験し過ぎ去った。そして今、<などありまして>は普通に使われる「この製品にはA、B、C・・などありまして」というような、詩語としてニュートラルな印象です。そしてそういう印象をもたらすのは、この句の他の部分がいっさい70年代フォーク的でないからだと思う。俳句の言葉としては「賞味期限切れが近い」と書いた通りに思いますが。あまりびりびりとアレルギーを起こしていると、ふと大事な物を取り落としてしまいそうな気が、最近してならないのです。
帽子:(満月:受け継いできたある部分を伝えて行かねばと思うことがあるのですね。それは意識していなくてもふっと頭をもたげて句の中に入り込んでいる。そういうふうに出来た句を見ると、ああ、私はこれを書いて行かねばならない、と思う。)
いや、おっしゃるとおりだと思います。ぼく自身は伝統を受け継ぐつもりで俳句を書いています。
(満月:どろどろの情緒の中に引っ張り込まれるのを怖れるあまりすべてをバーチャル仕立て、手触りのないぺらぺらかさかさの作り事として、自らをも虚の存在であるかのように描こうとしている、という側面が見えます。それが現代そのものだということかもしれませんが、)
ぼく個人としては、俳句のような短い詩形では、virtualとactualという二分法自体成立しにくいのではないかと思っているのですが。満月さんがどういう句を「すべてをバーチャル仕立て、手触りのないぺらぺらかさかさの作り事として、自らをも虚の存在であるかのように描こうとしている」と思ってらっしゃるのかわかりませんが、そういう作りかたこそが自分にとって切実な作りかたなのだ、と思ってる人がいるかもしれません。
(満月:で、この句。なぜだか私はこの<などありまして>からは全然70年代フォークの臭いを感じないのですね。なぜでしょう。たしかに加藤登紀子の歌はあった。でもその時代にすでに子供ではなかったせいか、「中也のパクリ」という意識のまま、面映ゆいまま体験し過ぎ去った。)
そもそもぼくは中原中也も70年代フォークも尾崎豊もぜんぶ同じだと思っています。そういうものを支える「ノリ」自体が苦手なのです。
(満月:そして今、<などありまして>は普通に使われる「この製品にはA、B、C・・などありまして」というような、詩語としてニュートラルな印象です。)
そうでしょうか。「A、B、C・・などありまして」は、日常言語としてはニュートラルです(ぼくは使いませんが)。しかしそれを詩形式のなかで使うことは、けっしてニュートラルではありません。もちろん賞味期限は切れているのでしょう。もともと嫌いな食品なので切れていなくても食べませんが。
(満月:この句の他の部分がいっさい70年代フォーク的でない)
そんなことはないと思います。「不整脈など」が出てしまったのが「自分」だとするなら、それは就職するために髪を切ってもう若くないと言った人の30年後の姿かもしれない。また身の上に季節の花を配するという手法は、さだまさしが和歌や俳諧からフォークの世界に導入した手法を、俳句に逆輸入したような印象を受けてしまう。余談だけど、方哉・山頭火・住宅顕信って、一歩間違えると相田みつを・星野富弘・片岡鶴太郎・榊莫山…的に読めてしまう。てゆうか、向上句会で見かける自由律(少数派だけど)の作者って、そういう読みをしてる感じがしますね。勝手な想像でした。
(満月:あまりびりびりとアレルギーを起こしていると、ふと大事な物を取り落としてしまいそうな気が、最近してならないのです。)
これはおっしゃるとおりですが、生理的なものというのはある程度しょうがないところがあります。というかこの言葉、じつはそのまま満月さんにお返ししたいのですが、そのためには今回の句会の作者名が明らかになったあとでないといけないので、もう少しお待ちください。
ただぼくの前コメントで1箇所訂正とお詫び。たしか「許すべきでない」とか「認めるべきでない」的な書きかたをしていたと思いますが、「ぼくは認めません」と書くべきでした(あっ、また「べき」だ)。こういうことについてあまり「べし」「べからず」を振りまわすものではありませんね。反省。
満月:(帽子:ぼく個人としては、俳句のような短い詩形では、virtualとactualという二分法自体成立しにくいのではないかと思っているのですが。)
俳句というもの自体がバーチャル性のもの、という見方はたしかにできますね。
(帽子:満月さんがどういう句を「すべてをバーチャル仕立て、手触りのないぺらぺらかさかさの作り事として、自らをも虚の存在であるかのように描こうとしている」と思ってらっしゃるのかわかりませんが、)
読み手が「体感」を呼び起こし、共有することの出来ないつくりのものをそう感じます。作者自身五感と無縁につくっているもの。しかし体感を求めるというのはもしかしたらイクオール「湿った叙情」へとまっしぐらの部分かもしれません。
(帽子:そういう作りかたこそが自分にとって切実な作りかたなのだ、と思ってる人がいるかもしれません。かなりの割合でそうなのだと思います。)
そして私自身がその世代でないことを強く意識して悶絶する原因にもなっています。私は「現代」を生きていないのだろうかと。
(帽子:そもそもぼくは中原中也も70年代フォークも尾崎豊もぜんぶ同じだと思っています。そういうものを支える「ノリ」自体が苦手なのです。)
中也は私にとってずいぶん奥の方にいるので鈍感になっていたかもしれない。でも、”そういうものを支える「ノリ」”の一部に自分がいるということを強く意識せざるをえないです。溺れきっていなければそういうものも必要なのだと思う。私の少し下のいわゆる「しらけ世代」以後はそこをはじめから自分の中に取り込まないで(否定して、ある人はそうでもなくても取り込めないで)来たように思う。そこをオトナは「しらけ」と名付けたような。私の世代はとても中途半端。ジレンマの世代といつか書いたことがあるけど、見事にここに出てきました。好き嫌いというのもやはり時代が大きく影響していると思う。 (帽子:しかしそれを詩形式のなかで使うことは、けっしてニュートラルではありません。)最近よく見るので「賞味期限切れ」と思うのですが、ちょと前まで見なかった。たしかに俳句の言葉として用いるには特殊な言い回しであるわけですが、むしろ日常性のにおいの方を強く感じる。特殊な詩語というより日常性の一部をきりとって俳句の中で使ってみようとしていると感じる。うーん、これは試みのひとつか。ニュートラルではないね。
(帽子:「不整脈など」が出てしまったのが「自分」だとするなら、それは就職するために髪を切ってもう若くないと言った人の30年後の姿かもしれない。)
おっとお。。はあ。。そうか、私のように虚弱でない人は子供の頃から不整脈が日常的にあるわけではないのか。。。若くなくなったことの象徴??はあ。。。知らなかった。。。
(帽子:また身の上に季節の花を配するという手法は、さだまさしが和歌や俳諧からフォークの世界に導入した手法を、俳句に逆輸入したような印象を受け)
これも私は「さだまさし」がぶっとんでもともとの和歌や俳諧へと直結してますね。さだまさしはうまいことやったなあとは思うけど、ブームがすぎるとそのもともとの所に戻ってしまって「これはさだがやった」と感じるより「俳諧定番」と感じる(これは今私はちょっと面白い)。だって昔からさだに限らずたくさんの人がやってきたと思うから。若い時代に浴びるように体験した人はそっちが強力になっているのでしょうか。いや、そういう、時代の中でなされてきた詩の場面での仕事をきっちり押さえていかないと読みはできないということですね。
(帽子:余談だけど、方哉・山頭火・住宅顕信って、一歩間違えると相田みつを・星野富弘・片岡鶴太郎・榊莫山…的に読めてしまう。てゆうか、向上句会で見かける自由律(少数派だけど)の作者って、そういう読みをしてる感じがしますね。)
自由律の最たる問題はそこでしょうね。でも日本人にそれを求める心がある以上、これはなくならないとも思う。そこを抜け出した部分を読めるか書けるか、が文芸への第一歩かもしれないけど。相田みつを以下はそれが必要な人が享受すればいいと思うけど、俳句とのかねあいはとてもむずかしい。。ただこういう民間信仰的仏教の要素は人間の深いところのアニミズム的な志向と結びついていると感じていて、これは私が書かねばならない場所でもあるのです。たいへん難しい。
(帽子:というかこの言葉、じつはそのまま満月さんにお返ししたいのですが、)
はい。これはチノボーさんのことだけを言ったわけでなく、主に自分自身の「つきすぎアレルギー」や「因果関係アレルギー」、「テレビものわからない病」「取り合わせにショックが欲しい病」等々々・・過剰反応に嫌気がさしたという部分がここを書かせました。ただ、こういうアレルギーは私やチノボーさんだけでもないと思うから。「向上」を叫ぶこと自体ある種アレルギーが潜んでないとは言い切れないし、それを叫ぶことで猿回しの猿にみずからなって、参加していながら当事者意識のない「私見るひと」という層が出来る一因を作ってしまったかもしれないと反省しているのです。
どうも俳句から世代や時代へ話の中心が移ってしまったようです。でもこれは「私が何をやるか」「俳句で今何をやるか」に直結する問題かもしれないと思っているのです。
(帽子:あまり「べし」「べからず」を振りまわすものではありませんね。反省。 実はここにも反応してしまっていた(^^;・・)
ということで、いろいろ問題が出てきました。作者名発表がコワくて楽しみ。ワクワク。ぞくぞく。

6点句

脱臼や深くふかくに春の泥   満月

特選:蘭丸 特選:姫余 しんく けん太 

けん太:意味は分かりませんが、「深くふかくに」が思わせぶりです。意味もふかく分かりませんが、感覚は伝わってきます。
蘭丸:なぜ脱臼したのか? 春の運動場で転倒してなんて野暮なことを思ったらいけないのだろうなァ。“深くふかく”に“春の泥”であって、この春の泥という観念がけっこう曲者です。
あずさ:マイナスイメージ、プラス、マイナスイメージ、イコールイメージの反転がうまくいっているかどうか?
満月:意味的に因果関係になってしまっている。
しんく:千代の富士を思い出しました。泥を土にしたらつきすぎか。
姫余:脱臼から骨の白い色を、春の泥からは柔らかい闇色をイメ−ジし、その色彩的対比と、中句が上、下句をまるでブラックホールかのごとく吸い込んでいくように感じられてとても動きのある素敵な作品になっている。

春水を掬うメダカの学校跡   鈴木啓造

特選:健介 特選:あずさ 斗士 けん太 

健介:「メダカ」はひらがなか若しくは漢字で書く方が私は好きですが「学校跡」というユーモアが切なく、味わい深い。それ以上は説明の要無しでしょう。特選です。
けん太:「学校跡」は理屈っぽい。でも、「春水」のイメージはつかめます。
斗士:準特選。「メダカの学校跡」シャレていて詩情豊か。
満月:童謡の作詞家が創った言葉とその国民的イメージを流用した。しかし私は「メダカの学校」を見たことがない。実際に見たのは、メダカが群れて泳ぎ、いっせいに方向を変える習性に従った行動だ。共通認識に寄りかかって書くという手抜きが<春水>も<掬う>も嘘っぱちにしてしまった。
あずさ:メダカの学校跡、いいですね。史跡みたい。
つっこみ句会選句評:
あずさ:わたしの特選句なのですが、採らなかった人はなぜでしょうか?めだかの絶滅が心配されている昨今です。わたしはこの句、とてもいいと思うのだけど。。。
満月:つっこみ句会が提案されてそろそろ一週間です。この句、採らなかったのででてまいりました。
(あずさ:めだかの絶滅が心配されている昨今です。)
そうなんです。ニュースでやった。テレビでも新聞でも大きく扱って。その後の「メダカの学校」句の氾濫はご覧になってないでしょうか。めだかならぬ蛙の卵ほどぞろぞろ繋がって、まあ、でるわでるわ・・・この程度の句もぼろぼろ。どうしてこんなにたくさん出たのか。この句のコメントに書いている通り、すでに出来上がったなかなかいい童話があるからではないでしょうか。この句で唯一オリジナリティを認めるとするならば<跡>ですが、これとて、この一句を読むことで環境に対する危機感を激しく呼び起こされたり、喪失感や哀傷の気分に感染したりといった作用をなすほどのものではありません。メッセージ句としてもインパクトがなさ過ぎる、童謡「メダカの学校」のイメージに乗っかりで作った安易なニュース俳句の域を出ないと私は思います。・・まあ対象がめだかですから強烈なメッセージは無理かもしれませんが。
帽子:満月さんがお書きになったとおり、この句にいいところがあるとすれば「跡」です。しかし目高は水中にいるのだから、「春水」とまで書かなくても、というのが正直なところ。「メダカの学校跡」でじゅうぶん叙情的なんだから、「春水を掬」うなんておセンチの上塗りをしなくても、と思います。ちなみに「春水」は春、「目高」は夏の季語。
あずさ:「春水を掬」うはよけいですね。メダカの学校跡、のみで特選に選ったことを思い出しました。行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず、なのにもかかわらず、「跡」と言ったところが秀逸と思い、その他のことは考えなかったみたい。。^^;。
斗士:まず僕の解釈としては、もちろん「両手に掬った水」イコール「メダカの学校跡」ということになる。つまり「両手に掬った水」に対して、「この水はメダカの学校跡なんだ」という断定(あるいは限定)が成されているわけだ。その断定に、僕は詩情を感じた。たとえば川の一部を指して、「あそこらへんがメダカの学校跡なんだよ」などとしようものなら、一気にその詩情がぼやけてしまう。きちんと自分の体で水を感じることによって、臨場感およびリアリティが生まれてくるのではないか。「水を掬う」とすることによって、自分と「メダカの学校跡」との繋がりを際立たせ、句に深みを与えているんだと思う。ただ「春」は、確かに季違いになっちゃうし、問題あるかもしれない。でも「秋」「冬」だと「学校跡」とついちゃうし、「夏」だと離れ過ぎちゃうような気がする。難しい。
あずさ :いやあ、この解釈は秀逸です。やっぱり採ってよかった。わたしの目に狂いはなかった(←ころころかわる^^!)。
越智 :童謡のタイトルでなければ幼児語と考えてしまう「メダカの学校」に抵抗を感じていました。しかも「跡」が加わることで、余計にその抵抗は大きくなっていました。
が、宮崎さんの感想を読み、「春水を掬う」の臨場感を読み取ることで、そういった抵抗が消えました。「春水を掬う」その水の冷たさは、大人がメダカに親しんだ過去を振り返るきっかけになり得ると見直せました。
帽子:(斗士:まず僕の解釈としては、もちろん「両手に掬った水」イコール「メダカの学校跡」ということになる。つまり「両手に掬った水」に対して、「この水はメダカの学校跡なんだ」という断定(あるいは限定)が成されているわけだ。)
なるほど、それは考えなかった。解釈としておもしろいと思います。ただ、ぼくはこの句の形から文法的にその解釈に行き着くことができませんでした。句の形そのものから斗士さんの解釈に行きつくためには、そこでなにかひとつ読み手がかなりの変換を行わなければならないのではないか。とするとどうしても句として、悪い意味で不安定だ。
(斗士:川の一部を指して、「あそこらへんがメダカの学校跡なんだよ」などとしようものなら、一気にその詩情がぼやけてしまう。きちんと自分の体で水を感じることによって、臨場感およびリアリティが生まれてくるのではないか。)
もし先述の宮崎解釈が正しければ、この「体感」説は非常に筋が通っている。
(斗士:ただ「春」は、確かに季違いになっちゃうし、問題あるかもしれない。でも「秋」「冬」だと「学校跡」とついちゃうし、「夏」だと離れ過ぎちゃうような気がする。)
「目高」自体季語なんだから、季節をいれる必要はないと思いました。斗士さんの解釈はとても魅力的だけど、この句がそういう句であって、しかも自分が斗士さんと同じ解釈に行き着くことができていたとしても、ぼくは採りません。なぜなら、この「春」の字のせいで句全体が最終的には童謡的な甘っちょろさに着地してしまっている気がするから。
まひる:えーと、いつものぞき見しています。無関係者ですが、ちょっとよろしいでしょうか?で、気になったんですが、メダカの学校跡は「メダカが住めなくなった川」を指すんですよね。そうすると、わたしなんかどうしても護岸工事だの生活排水だので汚れた川を想起してしまう。そこを指して「春水」は、ちょっと。体感ということで言えば「そんな汚い水、掬う気にならないもん」なのです。
(帽子:「目高」自体季語なんだから、季節をいれる必要はないと思いました。斗士さんの解釈はとても魅力的だけど、この句がそういう句であって、しかも自分が斗士さんと同じ解釈に行き着くことができていたとしても、ぼくは採りません。なぜなら、この「春」の字のせいで句全体が最終的には童謡的な甘っちょろさに着地してしまっている気がするから。)
まったく同感です。「社会批判」ならば「春水」がじゃま。「回顧的抒情」ならばたいくつ。
あずさ:(まひる:無関係者ですが、ちょっとよろしいでしょうか?)
もちろんです。他の方もぜひご発言ください。
(まひる:で、気になったんですが、メダカの学校跡は「メダカが住めなくなった川」を指すんですよね。)
いや、わたしはメダカが通った跡でいいと思います。もし、絶滅してしまった未来と考えたとしても、川はせっかくきれいになったなにメダカは。。。というふうに読むこともできます。実際、東京の川は一時期に比べれば、少しマシになっています。
(まひる:社会批判」ならば「春水」がじゃま。「回顧的抒情」ならばたいくつ。)
メダカがタイムリーな話題であることから、社会批判的ニュアンスが生まれ、単なる懐古的叙情ではない奥行きが出た、とも解釈できますよね。
あと、チノボーさんの、文法的に、という部分をもう少し説明していただけませんか?わたしは語順からいって、斗士さんの解釈には無理はないように思います。
春水を掬う、で切れて、メダカの学校跡。
一つの動作があったと解釈するのは、(自分が気づかなかったのになんですが^^;)もっともなことだと思います。
帽子:どうも、「掬う」のあとの切れが(ぼくには)見えにくい、というだけのことです。ぼくの読みの浅さかもしれませんが、ひっかかってこなかったから深くつっこまないでつぎの句に言ってしまった、というか。語順からいって、斗士さんの解釈は「充分アリ」とは思いますが、30%くらい「無理」の余地はあると思います。その30%のところに吸いこまれてしまったチノボー。
それから、まひるさんへ。どんどん発言してください。投句していない純粋読者の立場からなんでも言ってください。

5点句

でで虫や断酒の会に赤ん坊   後藤一之

隆 特選:秋 斗士 船外 

鯨酔:「まあ、可愛らしい」でしょうか、多分「うるせえなあ、赤ん坊なんか連れて来やがって。何処だと思ってるんだ」でしょうか。
斗士:「断酒の会に赤ん坊」の、抑制されたほのぼの加減が心地いい。ただ「でで虫」が今一つ広がらない。
船外:ここに何ででで虫、断酒、赤ん坊?何となくおかしいのだ。
隆:この赤ん坊が酒豪なんですネ。
秋:この赤ん坊の為に断酒しなければならないという重い現実をさらりと詠んでいる。でで虫が良い。
満月:そんなところに赤ん坊を連れて行くなって。え?赤ん坊がアルコール依存・・・むむ。
あずさ:大人とは正しく我慢する生き物である。
つっこみ句会選句評:
あずさ:わたしはこの句はピンと来なかったのですが、ピンと来た人よろしく。
斗士:基本的に、自分の選んだ句に対して、批判的意見が出た時は、かならず弁護したいと思う(うまく弁護できるかどうかは別だけど)。やっぱ選句した以上は、とことんその句に肩入れしていきたい。 この句に関しては、「断酒の会に赤ん坊」というフレーズの味わいに惹かれた。「断酒の会」というのは、「過去において、酒の害で何らかのトラブルを起こした」人たちが集まっている会だと思う。体壊したり、酒乱だったり、酒の勢いで過ちを犯したり、で、何にせよ、他の人に(直接的間接的に)迷惑をかけてしまっていたわけだ。自分が酒を飲むことによって、悲しむ人がいる。その「悲しむ人」のシンボルとしての「赤ん坊」だと、僕は受け取った。実際に、赤ん坊を連れてそういう集まりに行くというのも十分ありえる景だし。「断酒の会」の存在意識を、うまく浮き彫りにした作品だと思う。ただし、本編のほうでも書いたけど、「でで虫」がどうにもピンとこない。とってつけの印象がある。「赤ん坊」と、ついちゃってるようにも思えるし。。。あるいは、大酒飲みの赤ん坊がいて断酒の会に参加している、という狙いなのかな。もしかしたら大多数の人はそう解釈するのかもしれない。
秋:この句を特選で頂いているものですから、「桜咲くどこか訂正されながら」とどちらを特選にするか迷いましたが、発言しないといけないかなと思って先日書き込みましたが、エラーで送れなかったものですから、あずささんから載せていただくことにしました。断酒の会というのはアルコール依存症の断酒の会だと思います。以前、保健所で仕事してましたから、少し関わった事あります。中々、断酒できないのです。例えば、本人が一生懸命やって何年間か出来ていても、ちょっとしたきっかけで少しでも飲むと、また元に戻って、1日アルコール漬けになります。その時の家族の絶望ったら、ないんですよね。そして、この句ですけど、「赤ん坊」という表出がなんだか希望を持たせてくれました。ひょっとしたら、この断酒は成功するかも知れない。。と思わせてくれます。季語の「でで虫」も家族と本人の絶望感のうえに試みる断酒の一縷の希望を感じさせてくれます。社会的抒情を詠った句だと思います。そんなことで、わたしはこの句を特選で頂きました。
あずさ:秋さん、ありがとうございます。なるほど。断酒の会にかかわったことのある方がこの句を読むのと、そうでないのとでは読みが変わるのですね。社会問題というのは、その当事者(当事者の身近な人を含む)と、情報のみでその問題を知っている人とでは、やはりその実感に大きな差が出るのでしょう。秋さんが以前、「ジェンダーや姫と呼ばれて立ち上がる」というわたしの句を採ってくださったのを思い出しました。わたしはつい「意味」に拘わる作句をしてしまい、それが返って嫌われる場合が多々あるのですが(^^;)、秋さんが選ってくださってとても嬉しかったです。もっともこの時、秋さんはジェンダー句を特選にしてくださって、「淫乱のいの形らの形」を逆選にしてくださったのでした。(←恨んでいるのではありません^^!)わたし自身、意味の紙飛行機を飛ばすような作句をしますので、秋さんのように読んでいただいて、受けとめてもらえると励みになります。今後ともよろしくお願いします。

観音の腕もげている竹の秋   山口あずさ

隆 青 啓造 肝酔 安伸 

うまり:あ、男前な句、っと思いました。
安伸:うまくまとまっていると思う。
隆:千手観音ならば一本や二本どうということはないか。竹の秋が効いています。
肝酔:竹の秋って、なんかオーストラリアはいま秋です、みたいなパラレルワードの存在を示唆する季語ですよね。腕のもげている観音というのもパラレルワールド的存在のような気がするので、この取り合わせってひょっとしたら絶妙なのかも。
満月:日本画。閑寂なる光景。<腕もげている>は今の世の「ひび割れ感」のようなものを感じさせる。ついている感がいまひとつ拭えないが。

少年の股間に泳ぐ鯉のぼり   天乃晋次

特選:しんく 泰之 秋 肝酔 

泰之:「股間」といえども少年時代ならば、何を泳がせてもまあ、様になるものですね。
秋:アングルのうまさ。ちょっと古風ですが、すばらしい情感のある句です。
満月:なんだか昔の「少年よ大志を抱け」的な根性漫画のワンカットみたいだ。しかし<股間>と言われると、鯉のぼりとは似ても似つかぬ少年の小さなペニスを想像してしまう・・。
しんく:もし少年がミニラなら結構いい絵かなあ。
肝酔:男のセクシュアリティーについての句ですね。面白いです。
あずさ:屋上に少年が立っている。その両脚の間に鯉のぼりが、と読むべきなのかもしれませんが、、、やはり、あらぬものを想像してしまふ。

新緑にぱちんと嵌まる空調機   中村安伸

帽子 晋次 秋 またたぶ けん太 

けん太:「ぱちんと嵌まる」の意味がはっきりわからない。気持ちよさの感じは全体的には伝わる。
晋次:クーラーのテレビCMにありそうだが、空調機としたのが、そのイメージを越えて、新緑の春の必需品めいておもしろい。
またたぶ:音読すると快い。諧謔も感じる。
満月:空調機が<ぱちんと嵌まる>とは実際の空調機の様子なのか、<新緑>という空気が浄化される季節になったことをそう言ったものか。<ぱちんと嵌まる>の語感、聞こえてくる音はねぼけた頭を瞬間蘇らせてくれるが、新緑と空調機ではあまりのつきすぎ。
あずさ:空調機の宣伝?
秋:新緑の爽快感を「ぱちんと嵌まる空調機」と表したところがうまいと思います。
帽子:中七の締まりがいい。
つっこみ句会選句評:
あずさ:木陰、とう名のクーラーもあったような。ぱちん、という音の良さなのでしょうか?
帽子:これ、たしか採ったような気がするのでコメントします。木々が鮮やかな色をしている風景のなかに、四角く穴というか、空白がある。高さ2mのところに四角の底辺があって、横長。その四角は、木の高さなどから判断して、幅5m高さ2.5mくらいになるはずなのだが。そこに、二人組の作業服の人たちがやってきて、空調機をはめる。
ぱちん。ということは空調機も作業員も異様にでかいはずなのだが、そんな遠近感そのものが自分のなかでもうどうでもいい感じ。しばらくして、空調機が静かに音を立て始める。マグリットの絵のような感じ。

桜蕊降る宦官の満身に   またたぶ

特選:一之 満月 帽子 桜吹雪 

帽子:ちょっとありがちかとは思いましたが。ところで中国の桜ってどんなの? フランスのは日本のに比べると地味。
桜吹雪:ホンモノの宦官は見たことないけど、筋骨隆々、ひげすべすべ、性質陰湿なら、桜蘂はなかなか卓抜な取り合わせ。倒置も効果あり。
あずさ:虚しき宦官。
満月:降ってくる蘂はふつう雄蘂。花粉を与え終われば用はないのだ。宦官という、見たことがないゆえにいっそう想像を掻きたてられる、性を切り捨てられた存在の、それも<満身に>降るという。頽廃とせつなさに一票。そして見事な季語使いにも。
つっこみ句会選句評:
あずさ:宦官と桜ってなんか会うよね。どこか訂正されている宦官^^!。
啓造:はじめて発言させていただきます、名古屋市在住の鈴木啓造ともうします。青山俳句工場は、俳句関係のページを検索していて偶然出会いました。何かただならぬ熱気と殺気?が漂って思わず引き込まれてしまいました。さて、「桜蕊・・」の句ですが、作者が中心に据えたかったモチーフは「宦官」であると思います。この「宦官」という食材ををどう料理するかが、作者の腕の見せ所になると思います。まず「花弁」や「花吹雪」ではない「桜蕊」というトッピングのセレクトは成功していると思います。たぶん、「桜蕊」とすることにより生殖行為を奪われた男と大自然の性の営みが響きあうからだと思います。
また「浴びる」や「舞う」でない「降る」というソースの振り掛け方も自然です。「降る」としたことで、ぐっと情景が内面化しているように思います。かつて存在した生殖能力が春の気韻の中へと昇華し、姿を変え「桜蕊」となって降り注いでいるような印象を匂わせます。・・・と、読めてしまうほどこの句はきちっとした出来であると思いますが、「宦官」というモチーフがあまりにも珍奇で濃い味なので料理するのが難しいように思います。
どなたか、「宦官」俳句の成功例をご存知でしたら、教えてください。 あずさ:よろしくお願いします。それにしても、皆黙っているところを見ると、宦官の句ってないのかも。。。???
斗士:中村くんあたりが作ってそうだけどね。この句も、もしかしたら。。。
安伸:ちょっと検索してみたところ、96年に一句だけ作ってました。<しめ縄に女官宦官ひとつなぎ>とかいうしょうもない句で、没にしました。作ったこと自体忘れてたし。「桜蕊」の句のほうがずっといいです。宦官への愛を感じます。

4点句

耽美的南欧女来てビンタ   白鳥 光良

特選:隆 吐無 船外 

満月:<耽美的>に<ビンタ>が来るのはおもしろい。<南欧女>と<ビンタ>も合っている。が、<耽美的南欧女>となるとちょっとイメージがまとまらない。でも回文でここまでイメージくっきり、動きまで見せかつ笑えるのはかなりの手練れの業。
健介:まるで相手にされないよりはまだ唐突な(であっても)「ビンタ」の方が、などと考えてしまう“お馬鹿な”私。
船外:下5、読者がビンタ食らってひっくり返ったの図。
あずさ:他の人にビンタされるよりはよほどましだよね。
隆:脱帽・見事・回文でここまでやられたら、回文でなくともこのイメージはOKです。
またたぶ:特別賞に推したいです。

春の泥無性に郷を離れたき   船外

特選:にゃんまげ 肝酔 べる 

健介:「春の泥」ではちょっと付き過ぎるのでは?
あずさ:このモチーフで一句作って欲しい。
べる:でも故郷がある人はいいな、と思ってしまいます。
にゃんまげ:なんで泥なのかわからないくせに、わかる気がするのはなぜだろう?
満月:泥と郷はつきすぎ。散文的なごく一般的感慨を季語と取り合わせたからといって俳句になるわけではない。
肝酔:泥と郷はつきすぎと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、なんか昭和30〜40年代的心情がにじみ出ていて、宇多田ヒカルよりも藤圭子という感じで気に入りました。

虹口(ほんきゅう)は朧に犬と日本人   千野帽子

満月 泰之 健介 一之 

しんく:「蛇口」は、「かつて日本人の多く住んだ地域」とありましたから、だとすると日本人と記すのは少し説明くさくなってしまうか。
健介:「虹口(ほんきゅう)」を広辞苑で引いて得られた以上のことは分からないので、何とコメントしてよいものか困ってしまうのです。ただ、全体の印象が何となくイイ感じなんですよね。調べも好くて……
満月:『南京路(ロード)に花吹雪』という漫画を思い出した。虹と朧は付くが、<犬と日本人>の組み合わせで歩いているのはなかなかレトロでよろし。
泰之:句全体のリズムで採りました
あずさ:虹口は辞書を引いたが、旧共同疎開と朧では付くのではないか?
参考:【虹口】(Hongkou)中国上海の旧共同租界中の一区域。かつて日本人の多く住んだ地域。−−広辞苑より

春暁や白鯨二匹雲となる   船外

隆 桜吹雪 一之 あずさ 

あずさ:ぽっかり感がいいっす。
帽子:逆選候補。
隆:鯨は「匹」でなく「頭」の方が…。しかし雲となるとは云いえて妙。
桜吹雪:単なる風景といってしまえばそうだし、見立てとして雲を鯨に見たてるのもありふれている。鯨を二匹というのもどうかと思うし、字面もいただけない。それなのに、この句に引かれるのは何故だろう。
満月:朝、鯨のような白い大きな雲が出てた?この句、<雲となる>の部分が勝負どころだったのに。

3点句

春は螺旋階段1/2の法則   姫余

特選:安伸 斗士 

斗士:「螺旋階段1/2の法則」っていったい何だ? でもなにかしら春っぽさを感じるのだ。
満月:<螺旋階段>は何事かを期待させるが、<1/2の法則>とは??<春は>という、無頓着な措辞がこの<法則>を余計わからなくする。
またたぶ:このセンスの持ち主がどうして「法則」なんてつけたのか。理屈系措辞を逆手にとって詩情を醸す手はいいとして、ここでは蛇足としか思えない。
健介:それってどんな法則なのでしょう?
あずさ:どのような法則なのか、ピンと来ない。この手のバーチャル法則は言われただけで納得というようなものでないと、説得力ゼロ。
安伸:言葉の勢いのよさに惹かれた

ステンシルでマークせよ春の丁髷   摩砂青

蘭丸 帽子 べる 

満月:<春の>まではなにごとが起こるのかと期待した。が、丁髷・・・??
あずさ:ステンシルとは何ぞやと思いgoo(インターネットの検索エンジン)してみた。1407件もひっかかってきた。何かよく分からないが、ペインティングの一種らしい。楽しい趣味の世界。一日の大半を売買春に関する言説に費やすよりもよほど健康的である。
帽子:今回命令形の句が多かったが、そのなかではこれですね。
蘭丸:春の丁髷ってどんなんかなァ。よく分からないけど、おもしろそうです。“マークせよ”なんて、こんなことで、ずいぶんとエバッているけど、いちおうマークしてみるか。

菜の花がくすぐったいよ朝の恋   松山けん太

特選:AIR 泰之 

鯨酔:「それでどうしたのヨ!」なんて僻む声が聞こえそう。
泰之:「洗濯物が ひらひら くすぐったいよと 身をよじらせて」という、フォークシンガー・友部正人の歌「もう春だね」をちょっと思い出しました。いい上五中七と思いますが、下五はもう少しイメージを絞り込めるのでは、、、
健介:まあ上手くやってください,ってとこです。
帽子:逆選候補。
AIR:春の朝を、鮮明に描写してるように思えます。文明機器の中に生活している僕にとって、昔遠足で出かけた、菜の花畑を思い起こされた句でした。
満月:朝の恋があるなら昼の恋も夜の恋もあるのか。一日に何回も恋をする。<くすぐったいよ>なんて言われると勝手にしてくれといいたくなる。<菜の花がくすぐったい>は面白いのだが。
あずさ:恋はくすぐったいです。しかも朝なわけだし。。。

山に来てシーツ干したよう蝶に遭う   秋

特選:景琳 蘭丸 

あずさ:「干したよう」の「よう」がわからない。「ように」なのか、「干したよー」と切れているのか???
蘭丸:この句が、句としていいのか悪いのか初心者のぼくには分からないのですが、けっこう好みです。山の精が、街からやってきた人間がシーツのようなバカデカイ蝶の妖怪に遭遇して動転するさまを見ている句と、かってに解釈しました。水木しげるの漫画みたいでおもしろかったです。
景琳:そんなに蝶がいたのか!?ちょ、うっと関心度高し。
満月:今月はシーツが二枚も登場した。<干したよう>「な」で、蝶の群舞が一面真っ白だったということか。蝶をシーツにたとえるなんて。ああ。。。

行く春や紙飛行機のダッチロール   白井健介

特選:啓造 光良 

満月:気分はとてもよく感じられる。が<行く春や>はもう少し考える必要があったのでは?どこか付いていて安易な感じがするのだ。
あずさ:紙飛行機のダッチロールはどこかで見たような。。。

2点句

向丘の鴉くはくは春の風   吐無

船外 しんく 

またたぶ:「くはくは」に拍手。おかげで「春の風」にも新味がある。
健介:「向丘(むこうがおか)」という地名はあちらこちらに(私の家のすぐ近くにも)あるんですよね。という点を踏まえると「向丘」が利いているというよりも要は別の地名であっても宜い感じです。つまりはあまり特色のない句ということになるかな。申し訳ないけど。
しんく:「春の風」が違うものならさらによし。
満月:<向丘>は向かいの丘という意味だろうか。何か言葉を探したいところ。言っていることはどうでもいいこと。
あずさ:カラスがくはくはと鳴いたからと言って、それをそのまま言われても。。。
船外:鴉の大フアンに、「くはくは」とは喜ばせてくれますねえ。

髪跳ねしメグ・ライアンや風薫る   白鳥 光良

隆 健介 

しんく:あのCMか映画を観て作られたのなら、作者には汀女の「外にも出よ触るるばかりに春の月」を捧げたい。自戒もこめて。
健介:この句は好き。何故かって理由を考えてみたとて取って付けたような理屈を言うのが精一杯でしょうし……私の場合はね。でもとにかく好き。会社ニ疲ルィマシタ……
隆:メグ・ライアンの髪が、よく見えて来ます。
満月:メグ・ライアンを知りません。が、これもどうでもいい内容。
あずさ:メグ・ライアン句をどこぞで見たような。。。
帽子:逆選候補。
またたぶ:髪伸びしポメラニアンや風そよぐ

薫風にシーツの帆をはれイスパニア   桜吹雪

晋次 安伸 

満月:<シーツ(の帆)をはれ>と登場人物が命令している。日常生活からの発想である。ところがそこで突然とまどう。なんと命令された相手は<イスパニア>なのだ。ここは<の>を取って、ぜひともシーツ自身に帆を張ってもらわねば。<はれ>がかなである必要があったかも疑問。
安伸:イスパニアの唐突さがいい。
またたぶ:かく芳ばしき句調なれども中八のだれは救えず。
晋次:シーツの帆がいい。日本でないのがいい。
健介:失礼ながら比喩が少々野暮ったい印象でした。
しんく:大航海時代のスペインを気取りながら洗濯ってところですか。
あずさ:帆、とイスパニア、付きすぎと思います。

桃の花二日酔いにはウエハース   肝酔

健介 一之 

健介:“キリンレモン”という意見もあるようだが、確かに「ウエハース」なら少し食べられそうな感じ。でもやっぱり濃いめの味噌汁が……あっ、それとウエハース(?)。
満月:「壮快」か「安心」か「わたしの健康」に送ってみたら?取材されるかも。
あずさ:説得力がない。

白蓮に紫の痣ありにけり   足立隆

健介 安伸 

健介:“はくれん”と間違えそうになったけれど“白木蓮”と書くのでしたね。こちらの方は“びゃくれん”。写生句として採らせていただきました。
あずさ:あるかもしれないが、「ありにけり」というほどのものではないと思う。
満月:だれが殴ったのだろう。花の世界にもSMありか。それともこれはドメスティックバイオレンス?頽廃的な香りがただよって来るようだ。
安伸:痣というシニカルな捕らえ方がおもしろい。

霞して東京はでこぼこに展ぶ   吐無

蘭丸 青 

またたぶ:「単なる写生」か「写生以上」か評価が分かれるとみた。
蘭丸:そう、東京はでこぼこなのです。まして霞がかかってしまえば、そのでこぼこのシルエットは、どうしようもなく不調和な人間たちの営みを象徴しているようです。
満月:高層ビルから眺めているのか。霞とでこぼこという感じや音感がどうにも合わない。
あずさ:高層ビルの屋上に昇ったのか?

夏潮へ海辺の駅は出航す   桜吹雪

晋次 啓造 

満月:夏潮、海辺、出航、みな付きすぎ。海に溺れてしまった。<海辺の駅>か<出航>かどちらかを使って言葉を厳選して欲しかった。評を離れて言えば、この季節玄界灘から吹き付けてくる潮の匂いは、かなたへの思いを誘いたまらないものがある。
晋次:言葉自体も無理がなく、すんなり現実をいれかえてくれた。
あずさ:付きすぎ。

支社長の卑弥呼となりし花馬酔木   しんく

吐無 AIR 逆選:景琳 

あずさ:4コママンガに出てくるような女社長か?
景琳:現代卑弥呼、頑張れ!
AIR:思わず、笑ってしまいました。
満月:支社長が卑弥呼になったのは花馬酔木の中でのできごと?あるいは花馬酔木の毒で支社長が卑弥呼に??どちらにしても卑弥呼と花馬酔木はつきすぎ。

薬指と小指いさかう木の芽時   宮崎斗士

青 またたぶ 逆選:隆 

あずさ:いや、わたしのは仲良くしてますよ。
隆:ちまちました所、いまひとつ。
またたぶ:光ってるなー、この着想。行司はやはり親指か。
満月:実に微妙な発見だ。これは自分の手指がもつれた状況か。木の芽時の病的な感じが出ている。まさか彼と彼女のなんて言わないよね。

1点句

天満宮五月の恋をくださいな   松山けん太

景琳 

健介:いやだョ〜ン、なんてね。
あずさ:絵馬に書いてあった?
帽子:逆選候補。
満月:菅原道真は学問の神様。政権争いで太宰府に流されたのを恨んで天変地異を起こしたので、その霊を鎮めるために建立されたのが天満宮だ。太宰府天満宮に縁切り橋と、うっかり渡ってしまった恋人達のための縁戻し橋はあるが縁結びの神では断じてない。従ってこの願いは聞き届けられない。第一、五月の恋を願うというのなら六月にはまた六月の恋をねだりそうだ。そんなお安い恋など・・・
景琳:天満宮は学問と思ってたが、恋もくれるとは、いざ行こ。

複製の春を剥がして旅の人   天乃晋次

啓造 

うまり:「旅の人」が、おしい〜。
あずさ:「旅の人」でなければよかった。かも。
満月:ふと、旅に出ようとする芭蕉を思った。碧梧桐ではこういう感じはない。春のいまひとつ実在感に乏しい感じ、それを<剥が>す。しかし実はみずからを<複製の春>から剥がして<旅の人>になるのだ。決然と表明しながら、なぜか厳しさよりも甘い感触がするのも複製の春のせいか。
帽子:逆選候補。

土筆つみ胞子のけぶり立ちにけり   愚石

にゃんまげ 

満月:はあ。。それでも持って帰っておひたしにして食べた?<胞子>のところをぶっとんだ何かで置き換えてみて。
にゃんまげ:今年は土筆に出会うことを忘れていました
あずさ:写生句ってこーゆー句のことを言うの?

たてがみをわずかに揺らす雌株   満月

晋次 

晋次:この句、前回の「花粉症」の句と同じ構成にみえるが、おなじ作者か?たてがみとくればライオンでは付き過ぎるし、切り株に新芽がでて、春風にゆらぐたてがみでは見立ては平凡すぎるが、この相わたる私の不分明を解消できる技量はもっている句の作者であると思うが。
満月:やっぱり尻切れトンボだな、今見ても。<雌株>は難しいところ。
あずさ:風媒花が揺れてる?

バンドネオンしぼったら蟻地獄   摩砂青

姫余 

満月:バンドネオンって六角形のアコーディオンみたいな?それを<しぼる>とは蛇腹を縮めることか。で、なんでそうすると蟻地獄か?知識がもとよりない上に想像力の限界を感じる。
あずさ:蟻地獄のような音というのがわからない。。。
姫余:発想がいい。

春嵐顔うすっぺらで千切れてしまう   蘭丸

青 

満月:<うすっぺら>か<千切れてしまう>かどちらかにしてほしい。「顔がうすっぺらだから春の嵐に千切れてしまう」と散文的に理解するしかない。
あずさ:ムンクのちぎり絵。

膝小僧 マヨネーズわらう 鼻のした   にゃんまげ

景琳 

あずさ:意味不明。
帽子:逆選候補。
満月:鼻の下にマヨネーズがくっついた?私にはどうでもいい話。膝小僧はなぜここに登場したのか?字開け無用。
景琳:膝はマヨネーズで、ケチャップは?

沈丁花やがて血がわき肉踊る   足立隆

安伸 

満月:自分の言葉がひとつもない。
安伸:沈丁花が妙に効いている。
あずさ:沈丁花って、考えたら肉っぽい花かもしれない。。。

尿酸値高き麒麟と春の宵   紫藤泰之

肝酔 逆選:べる 

肝酔:尿酸値高き麒麟、っていったいどんな麒麟なんだか分からないけど妙に想像力をかきたてられました。また、「春の宵」という季語がなぜかスンナリと入ってきて、あるイメージが定着するのです。でもどんなイメージ?、と言われてもうまく言葉で説明できないんだけど。というこ
あずさ:麒麟って黄色いよね。尿酸値高いかも。
満月:麒麟は想像上の動物。詳しくは知らないしめんどうなので今は調べない(辞書のない部屋にいる)。首から上は龍、肩から下は鹿。尻尾はライオンで足首には空を飛ぶための巻き毛がついていたような。え?尿酸値?あのう、ほっそりと背の高いご主人の尿酸値が高いとか・・・じゃないですよねえ、まさか。。。。

春分の日の日の丸の棲息数   鈴木啓造

べる 逆選:桜吹雪 

桜吹雪:「日の丸」と、くるだけで意味深なのに、それを春分の日と限定して、それにたたみかけて棲息数でしょうちょっと意味を持たせすぎでは。
べる:国旗、国歌法が成立してどれだけ日の丸が棲息するのでしょう?化石のように思えてきます。
満月:数えた結果の報告は要りません。もしかして少し風刺のつもり?
あずさ:絶滅寸前?

花よりもめでたき団子三兄弟   愚石

AIR 逆選:姫余 逆選:斗士 逆選:光良 

あずさ:「花より団子」を現代の流行に媚びた形に変形しただけ。
満月:あなたがめでたい。今月は団子の句が必ず出るとは思ったが、この一句だけでほっとした。
しんく:タケシムケンのピスタチオ一人っ子が私は好きだ。
姫余:ちょっと発想が貧弱では??
斗士:なんていうか誠意が感じられなかった。
AIR:世の中は、猫も杓子も「団子三兄弟」ですからね。

こと切れた受話器抱えたまま 悲しくて肩抱えて泣く 月が視ている  nao

AIR 逆選:泰之 逆選:健介 逆選:啓造 逆選:一之 逆選:しんく 

泰之:「悲しくて」「肩抱えて泣く」。植木等なら「それを言っちゃあ、おしめえよ」とつぶやくことでしょう。
健介:これって何なの?
あずさ:これは一体??
満月:一応「俳句工場」なので俳句ということでコメントする。俳句は、極限まで言葉を切り捨て、山ほどの発語の欲求を血を流して断念してゆくことで読者に大きな想像の時空=謎を与えるという、非常に自虐的かつ自己滅却的「芸」ではなかろうか。この一章、<こと切れた受話器>と<月が視ている>以外は俳句として必要ない。<こと切れた受話器 月が視ている>おお、出来たではないか。ここまで我慢してみようよ。
帽子:逆選候補。
しんく:字数を使ったわりには状況が漠然としていて掴みどころがない。作者は読み手に何を想像させようとしているのか?同じ長文俳句なら、以前の娘遍路のほうがまだましだ。
AIR:悲しくて、倒れそうな自分を支えてほしい気持ちを、月に託してるように感じました。

その他の句

英霊と仲直りする夏休み   山口あずさ

満月:英霊と夏休みはつきすぎ。もし季語がないから<夏休み>をと思ったとしたらこんな安直な句作りはない。実際に夏休みだったから、というのなら創作ではないということ。私たちは日記やメモを読みあうために句会をしているのではない。句会と称する、そういう「文化的?井戸端会議」が多いことも事実だが。
しんく:夏休みに小林よしのりの「戦争論」を読んだとみましたが、どないでしょうか?

広い野面を白蝶追うように行く   秋

満月:<面>と書かなければ地下を潜っていくと思うわけでもなし。白蝶を思い浮かべようとしたら実はここに登場はしない。ただノヅラというやぼったい音感と、蝶になったつもりで自己陶酔している登場人物が浮かんで鼻白む。表現上は、順序通りに書かれたメモ。ここから句作りの苦しみも楽しみもはじまるのだが。
あずさ:ご自由に行ってください。
隆:好きな句、イメージも、リズムを整えればと残念です。

マネキンに月光滴る午前二時   蘭丸

あずさ:マネキンはともかく、午前二時は月が滴りがちな時間帯である。
満月:わざとらしい。<午前二時>も効いてないのでなんだか思わせぶりなだけに見える。最大の問題は、この句にこうでなければならないという強い表現の意思が感じられないことだ。
帽子:逆選候補。
またたぶ:足元の雫拭きいる朝(あした)
健介:雰囲気はいいけれど発想がやや常識的かなぁ…と。

手をのばし虫を拭き取る葉桜や   べる

あずさ:??桜の葉っぱで虫を潰したの?
満月:葉桜が手を伸ばして我が身から虫を拭き取っている。桜の下に死体どころじゃない、こわくてマンガな光景だ。

靴底に 桜の花見て 春予感   AIR

うまり:かわいいです。ちょっと透き通ってたりして。
帽子:逆選候補。
満月:靴底に桜の花が着いていたんでしょうか?だったら春はもう来ているのでは?分けて書かないと俳句だとわからないと思っているかのような無意味な字開け。
あずさ:予感ではなくて、それはもう春なのだよ。

道すがら進まぬ心花曇り   城名景琳

満月:上五中七と下五で同じ事を言っているだけ。<進まぬ心>の感じを表現してください。
あずさ:進まぬ心、と花曇りでは付きすぎ。

春愁や自分を守るための銃   しんく

健介:「自分を守るため」というのは当たり前過ぎます。他の誰かを守るため、と敢えて言ったとして、それでも面白くするのはなかなか難しい気がします。
満月:俳句にすることじゃない。うまく料理して川柳として作り直してみてください。
あずさ:アメリカの話ですか? 「汝の敵を守れ。(文責:山口)←じぶんでじぶんをしつける辞典風^^!」

桃色のタイルの上をなめくぢり   後藤一之

健介:「なめくじり」と取り合わせようとする「“桃色の”タイルというのがちょっと見え見えの感じが強すぎる気がして敬遠しました。
うまり:あのね、モモイロだよ。モモイロのタイルでもうををっ、ときて、なめくぢ。エロス満載。
満月:で、踏んじゃった?なめふんじゃった〜。
あずさ:なめくぢりそのものが桃色だったら良かったのに。
鯨酔:詩情より他の物が湧きそうで・・・。

花びらは風雨で樹より泳ぐ舞   城名景琳

逆選:満月 

あずさ:「舞」は「〜しまい」の「まい」に掛けてあるのだろうか?と思わせてしまうことにより、駄洒落臭が発生してしまった。
満月:ここまでランダムな言葉の羅列もめずらしい。鎖編みをやりそこなってあっちへ進んだりこっちへ進んだりして、行く先がわからなくなったようだ。これはこれでイカレたおもしろさがあって十分逆選に値する。○いまくよおりよきてううふはらひなは=<今、苦よ。 折り良きテウ。うふ、払ひな、ハッ!>=逆から読んで微積的一句。懐が苦しくなって困っている。そこへ折良く昔金を貸したままだったテウさんが!うふふ、あのときの借金、払いな。しかしこちらも苦しいテウ氏、のらりくらり。ここは一発気合いを「ハッ!」・・・さて彼はお金を返してもらえたでしょうか。
帽子:逆選候補。

雨空に 思いを馳せて 涙する   AIR

逆選:帽子 

あずさ:というようなことを一句に詠むとどうなるのでしょう。
満月:自分の気持ちや状況しか言っていない身勝手な句。これでは共有できるものがない。字開け無用。
帽子:その他逆選候補11句。どれが逆選でもよかったです。寒くて音読できない。

葉桜に巻かれてしまえ生理痛   べる

逆選:AIR 

あずさ:「巻かれてしまった」の方がいいかも。
満月:<生理痛>だなんて言われても。それはあなたの個人的理由、そんなことを押しつけないで欲しい。単なるおまじない。
蘭丸:ぼくは男なので、生理痛の感覚はわからないのですが、この、痛さをこらえながら思わずつぶやいたような感じがとてもリアルです。でも、つくづく女性は大変ですね。
AIR:男の僕には、痛みは分かりませんが、辛そうなのを見てるとその気持ちが分かります。

満月のロートル海へ帰っていく   紫藤泰之

逆選:秋 

満月:このロートルは海亀か。いや満月そのものだろう。しかしロートルという語と満月は合わない。若い人にとって二世代前の流行り言葉がどこまで通じるのか。
あずさ:ロートル、聞いたことはあるが、使ったことはない言葉です。
秋:ロートルは老人ですか。わざわざカタカナ文字の外国語を使わなくていいと思うのですが。
参考:ロートル【老頭児】(中国語)老人。としより。−−広辞苑より。

蒼い軸 G線上の死少年   姫余

逆選:あずさ 

あずさ:「蒼」「G線」「死」「少年」限りなく付きすぎ。
帽子:逆選候補。
満月:ビョーキ句。あ、もう死んでた。