第15回 青山俳句工場向上句会選句結果つっこみ句会選句評

(長文注意!)

あまりにも長文のため、ページミルにバグが出ました--;。
つっこみ句会は別ファイルにします。
選句結果のそれぞれの句の選句からつっこみ句会選句評にジャンプするようにリンクしてあります。(※印刷して読んだ方が読みやすいと思います^^;。)
つっこみ句会の充実ぶりをお楽しみください。

向上句会とりまとめ:山口あずさ


水無月をあをあをとゆけ蒙古斑   満月

満月:<あをあを>と蒙古斑の関係、<ゆけ>についてご意見を。
凌:新鮮な言葉の世界から、「ゆけ」でもとの現実へ墜とされた感じ。
満月:「見送る父と息子」とお書きになってましたね。「ゆく」であれば主体は蒙古斑。<ゆけ>だともうひとりの?登場人物が現れて指図をはじめる、そこをそうとう現実的に捉えられたのですね。私自身は健介さんの選評にある「やや思い入れ過剰」という、作者自身の登場を感じます。ここは読み手によって分かれるところでしょうか。問題点ですね。<ゆけ>で出てくるスピード感は捨てがたい。<ゆく>だとゆっくり移動している感じがして。それはそれでゆったりしていいですが。
またたぶさん、ついてますか?響きあっているというふうには受け取れないでしょうか。
またたぶ:「ついてる」って思ったの私だけか。不思議だ… 他人の評は常に予想を裏切ってくれるけど。私の知る限り「月」の古名?で「あお」がつくのって「水無月」だけです。「青霜月」「青文月」はきかない。しかも「蒙古斑」で青でしょう?そもそも「あおあおと」って措辞は取扱要注意だと個人的に思う。チノボーさんはどんな表現してたかな?、情緒先行型(←私の表現)というか、読者より作者が先に酔い易い、よっぽどでないと成功させるのが難しい措辞だと思うんです。という訳でみなさんの評を読んでも、なお「響き合っている」とか「人体の表徴が天駆ける」とか解釈が及びませんでした。すみません>作者の方
帽子:そういえば、すっかり忘れてました。「青水無月」とかいう言い方がありましたね。それを指摘できなかった自分に反省。「読者より作者が先に酔い易い」ってのは、まさに的確な定義ですね。要注意物件としてぼくがよく挙げる「闇」「しじま」などの類もそういうところがあります。「これは詩なんですよ。かっこいい題材でしょう。感動してください」という印になってしまう危険があるのかもしれない。
満月:またたぶさん、こんにちは。 青水無月!しまったあ。<蒙古斑>はたしかに青いのでこれはだれかが書くなと思っていましたが。しかし、作者が意図してというよりも無意識に出たという感じ。余計まずいか。
(またたぶ:そもそも「あおあおと」って措辞は取扱要注意だと個人的に思う。チノボーさんはど>んな表現してたかな?、情緒先行型(←私の表現)というか、読者より作者が先に酔>い易い、よっぽどでないと成功させるのが難しい措辞だと思うんです。)
もしこれが<ゆく>だったらその辺は大分押さえられると思いますが。作者がその酔いに溺れていたらこれほどの支持はなかったように思うのですが、採った方はやっぱり酔いに同調したのでしょうか??この句の支持者にご意見を伺いたいのですが。

合コンのあとの王政復古かな   中村 安伸

凌:合コンでいまひとつ流れに乗れなかった男が合コン反省会で一気呵成に場を仕切っている。そんな空しい威勢のよさがうかがえます。と読まれると間違いではないのでしょうが、何となく、気の利いた手品の種明かしをされたようで、「王政復古」の勢いが失われてしまう。この句は「王政復古」が意味としてではなく、「王政かどうかはわからないが、確かに何かが復古している」と誰かが書かれていましたが、そういう漠然とした現実を抱えて、なお言葉として自立している、と私は読んだのですが ・・・。
 でも俳句の読みってすごいんですね。もっと曖昧なものかと思っていたんですが、勉強になります。
満月:情緒的に雰囲気的にばかり受け取っていては、「それまでに経験したことのある感情をなぞる」という範囲から出られないように思います。そこをはずれた句は「わからない」と読まずに通り過ぎることになりそうで、いろいろ考えてみます。もっとも理屈より得体の知れないぐわあっと底から揺らされるような体験をこそ、得たいと思っているのですが。
(凌:この句は「王政復古」が意味としてではなく、「王政かどうかはわからないが、確かに何かが復古している」と誰かが書かれていましたが、そういう漠然とした現実を抱えて、なお言葉として自立している、と私は読んだのですが ・・・。) 私も、現実の出来事に翻訳するのではなく、なにか得体の知れない鬱然とした質量、重力のようなものを感じるところがこの<王政復古>の「言葉の力」のように思います。 紫藤泰之さん、いかがでしょう。

蛇苺予期せぬ父を隠しもつ   天乃晋次

満月:凌さん、おばんです(^^)<予期せぬ>を非在の、とするあたりをちょっとご説明いただきたいんですが。<予期せぬ父>ならいなかったはずの父が現れたというふうに思い、<隠しもつ>は以前から継続してもっていたと感じるので矛盾するように思います。登場人物が<予期せぬ>であればいままで知らなかったのだし、<隠しもつ>のが登場人物とすると<予期せぬ>のは周りの人、ということになる。この辺どうでしょう。
凌:たしかに矛盾がありますし、「隠し持つ」で言葉が作者の思い通りに展開していないもどかしさも感じました。(もっとも作者はこれが私の展開だ、と言われるに違いありませんが)しかし、蛇苺のある場所というのは、もうすでに異界の入り口で、その蛇苺の陰に思もよらぬ形の父を見てしまった。この世のものではない父の発見。現世に身をおく子にとって、それは隠し通さなければならない父の姿ではなかったか・・・とここまで書いて「持つ」がどうしても説明できない。
書けば書くほど作品から離れていくようですが、惚れてしまえば、少々の難は気にならないってあるじゃないですか。(ここへ逃げたんではいけないんだけど)
帽子:(凌:とここまで書いて「持つ」がどうしても説明できない。) そういえば、構文の曖昧さとは独立して、「隠しもつ」という語にはちょっと隙があります。隙があるというのはどういうことかというと、悪い意味の甘さであり「意味深なふりしてじつはただ情緒的なだけの語の選択」であり、要するに詩的コミュニケーションへの甘えです。じつはべつの句にも書いた<闇><しじま><漂泊>などの語にも、このような隙を感じます。それを使いさえすれば意味深に見えるような気がするけどじつはただの気のせいで、読んでみると大袈裟だったり古臭かったり、安いお耽美系バンドの歌詞の常連語彙というか、古いタイプの二枚目(志垣太郎とか)って感じの、取り扱い注意物件としての語彙です。そういう語に安易に頼ると、二枚目ぶった句になってしまうのではないかと思う。
 それとはべつに、構文が曖昧な句は苦手です。解釈が多様に生まれることと、構文が曖昧であることとは、まったく別問題です。後者はただの舌足らずとか詰めの甘さに属する問題であり、もし意図的にやるとするなら、それなりの覚悟というものが必要になる。この句はその曖昧さを狙ったとしても成功しているとは思えません。
同様の理由で
霜の墓抱き起されしとき見たり    石田 波郷
もただの詰めの甘い句に過ぎません。この句の構文は長年にわたってああでもないこうでもないと論議されてきたようですが、論議そのものが無駄であり、黙殺するか、入門書に「偉い俳人ですらこんな失敗をするのです」と例示しておけばよろしい。長谷川櫂がこの句を持ち上げている批評(夏石番矢編『「俳句」百年の問い』所収、講談社学術文庫)などはただの詭弁であり、俳人仲間のうちでしかつうじない甘えのように思えます。
満月;(凌:>その蛇苺の陰に思もよらぬ形の父を見てしまった。この世のものではない父の発見。)
つまり蛇苺が登場人物の父を隠しもっていた、ということですね。なるほど。その解釈で行くと、実際の父はちゃんと現実世界にいるのにふとこの「蛇苺異界」に出くわして、そこに別の姿の父を発見した。。。なかなかおもしろい。そうすると「蛇苺」で切れているように見える部分が問題ということになりますね。
啓造:この句を特選にしようと迷ったくらいなので、擁護論をひとつ。 満月さんの「論理の矛盾説」、千野さんの「構文と選択語の甘さ説」の鋭く批判的ご意見、凌さんの「蛇苺異界の入り口説」の卓抜な読み、いずれも興味深く読ませてもらいました。さて、この句についての僕の意見ですが、以下のような解釈で、自然に読むことができたので、「論理の矛盾」と「構文と選択語の甘さ」については、それほど感じませんでした。(俳句をルーズに読んでいて、甘さや隙を見つけようとしない読みをしているからかもしれませんが・・・。)まず、この句の主語、つまり「隠しもつ」の主体は、「私(登場人物)」であり、また「予期せぬ父」とは「予期せぬタイミングで私の目の前に突如、現れるかもしれない行方知れずの父」であろう、と。つまり、この登場人物には公言できない、暗い出生の秘密に関わる「隠しておきたい本当の父」がおり、彼は、その父の予期せぬ出現に不安感、恐怖感、はたまた屈折した期待感、待望感のようなものを抱いている、といったサイコサスペンスタッチの情景が浮かんだのです。(句評にも書きましたが、いわゆる私生児とその生物学上の父親の関係のような。。。)こう解釈すると、路傍のちいさきものでありながらも、どこか背徳性と邪淫なイメージの付きまとう「蛇苺」という語が、下句と動かしがたい響きで、取り合わせられたように感じるのです。また、この俳句のモチーフは特殊なものを扱っているように見えて、心理学上の「自分の父親が本当の生物学上の父親なのか」と疑う強迫観念にも通じており、ある種の普遍性も持ちえているように思えます。また、この句をよく味わいながら解釈すると、「私」と「予期せぬ父」の間の関係には、このほかにも非常にさまざまな解が可能なことに気付きました。いくつか挙げてみます。
1、「私=キリスト、父=神」説
2、「私=人類、父=父性原理」説
3、「私=自立する女性、父=父性愛」説
4、「私=父親に似ていない子供、父=間男」説
5、「私=オカマ、父=乳」説。
などです。どうも失礼しました。
あずさ:啓造さんの解釈、とても面白かったです。蛇苺の本意本情としての邪淫、説得力ありました。

万緑という落し蓋抗うつ薬   秋

満月: <落とし蓋>はなかなかオリジナルな感受だと思います。<万緑という落とし蓋>までは鬱蒼と樹が繁った中での閉塞感がよく感じ取られる。がしかしなぜ<抗うつ薬>??
「はい、どうしました?」「・・・万緑なんです・・・」「落とし蓋の病ですね。抗うつ薬、出しときます。一日三回一回一錠ね。下の薬局で受け取って。はい次の方」という感じにどうしてもなってしまうのですが。
「という」にはチノボーさんほどではないが私もやや疑問。万緑といっただけで重さや閉塞感を感じてしまうのにわざわざ説明を重ねている感じがする。
帽子: ぎゃはははは。赤瀬川原平のエッセイみたい!『笑う犬の生活』(フジ、水曜22:00)でコント化希望。医師は内村光良、患者はネプチューン名倉、看護婦(真面目な顔で立ってて欲しい)にオセロ中島。

行きずりの男見送る夏の雨   山口あずさ

満月:この<行きずりの男>は「行きずりで瞬間つきあった男」だろうかただの通りすがりの男だろうか。前者なら「見送らないでよ、んなもの」などとつい娑婆的なことを言いたくなってしまう。後者なら「行きずり」という語の選択は大いに損。啓造さんの「行きずりの男」が「通り雨」を見送っているともとれるというご意見にも同感。こちらの方がイメージとしてはまだましという気がする。いずれにしても薄汚れた色恋沙汰を感じるとこの句はどうにもいただけないが、そのへんまったくなし、と考えると実に俳句的になってしまう。健介さんの特選もそのあたりなのだろうか。
あずさ:色恋沙汰だったとして、薄汚れているのでしょうか?この句、今考えると、けっこう「踏み絵」になっているような気がしています。
満月:色恋沙汰がみな薄汚れているとは決して思いません。ここに降っているのが<夏の雨>である所はざっと降ってさっと過ぎるという気持ちの良さも感じる。が、<行きずり>という語感はどうしても濁った印象を感じてしまう。からりと遊びました、なら、あ、そうですかよかったですねと思うだけですが、<見送る>というどこかべたつきを感じる行為も相乗効果で、私の性格に合わないのです。(あずさ:この句、今考えると、けっこう「踏み絵」になっているような気がしています)恋愛観の踏み絵でしょうか。別にキレイキレイな恋じゃないとだめと言うつもりはありません。この句のシチュエーションだと私が受け取った状況はわざわざ俳句で見たくなかったというだけのことです。

腹這いのまま漂泊の身となりぬ   凌

満月:この<漂泊>、私はちょっとおどけた感じに読んだんですが。「ヒョーハク」とでもいうような。大仰な言葉だけど、この滑稽さで深刻さが救われたかも、と。作者はおおまじめで書いてるにしても。
帽子:そうなんてす。ぼくは<漂泊>についてかなりアレルギー的反応をしてしまったのですが、あとで読み返してみると、この文脈からは必ずしも西行コンプレックスみたいな方向には行かないかもしれない、と思って、ちょっと反省したのです。
薫:あの、こんにちは、つっこみ初体験です、(恐る恐る)漂白、だったらおもしろいかなーと思いながら通り過ぎました。腹這いのまま洗濯屋の大きなローラに巻き込まれていくような作者、そんなつもりで書いたんじゃないですよね。すみません。
帽子:じつはぼくも同じことを考えました。
(薫:腹這いのまま洗濯屋の大きなローラに巻き込まれていくような。)
そ、そこまでは考えなかった。それいいかも。

夜も昼も地下茎は銀に触れる   中村 安伸

満月:チノボーさん、もう一押しって、どのへん?
帽子:まず、基本的にこの句はそんな嫌いではありません。<地下茎>っていうくらいだから<地下>にあるわけですね。で、そんな<地下>のことを<夜も昼も>なんて、<地下>だからなんとなく昼夜の別は関係なさそうなのに、わざわざ言っているあたりが、逆に地上から地下を切り離す効果を持っているのではないか。そこに<銀>。まあ物質としての<銀>だと思ったのですが、それに<地下茎>が触れている。さてこの<地下茎>は竹っぽいものか蓮根っぽいものかはともかくとして、<地下茎>ってのは「根」と違って中心というものがなくて、<地下>を網状に縦横に走っているわけで、それのある一部分が<銀>に触れつづけることによって、光もないのに光っている感じ。不可視の電気ネットワークというか、ドゥルーズ-ガタリのいう「リゾーム」のサイバー植物機械というか。どこが惜しいのかというと、この句のなかの漢字の語5つが、句のなかでなんとなく等価のインパクトを持ってしまってる気がしますね。主役は<地下茎>と<銀>のはずなのに、じつは<夜も昼も>というコール・ポーターの有名なスタンダードナンバーがあるため、こっちのほうも句の主役になりたがってしまうような。ぼくにとっては、そこで力が分散してしまったように見えました。

熟睡の男の寝息塞ぎけり   うまり

斗士: #??H#?1/2? 0
ぴえた:きゃあ〜〜〜工場長さまの意見ってかわいい!どんなこわいこと書かれてるのかしらって、こわごわのぞいたらかっわいいから、楽しくなりました。。。あれ?もしかして、工場長さま、文字化けにおいかりかしら。おこられるかなあ。。。
わたし、この作品好きでした。くちづけなさってるのかな?なんて、どきどきしながら読ませてもらいました。
満月 :おお、くちづけ!あまりに遠い記憶で全然浮かばなかった(^^;。。けど、熟睡してるひととしても・・・
ぴえた:だって、お鼻塞いでたり、手でお口とお鼻を塞いでるシーンじゃ絵にならないよ〜 疲れて眠っている人を起こさないように、そっと☆そっとね。でも、目が覚めて欲しい気持ちは「大」ですね。この微妙な心境にどきどきしたのかもしれませんね。
満月:そのどきどき感を読み手が感じられるように書いて欲しかった。なんか、エロスがないんですね、この句は。だからみんな殺人としか受け取れなかったのだと思う。
斗士:文字化けにコメントつけてくれた、ぴえたさん、満月さん、どうもありがとう。文字化けの原文は『この句、何を言わんとしているのか、というか、この題材をこう書くことによって、どういう膨らみを持たせようとしたのか、その意図がわからなかった。鑑賞を読んでみてもわからない。特選に選んでおられるけん太さんはじめ解明できる方にご意見を伺いたい。』というものでした。この句、確かに「くちづけ」とも「犯罪」とも解釈できるんですよね。ただ書き方があまりにもあっさりし過ぎていて、深入りしにくいと思うのです。
あずさ :「熟睡の男」と言われて、美しい男はあまり思い浮かばないのでしょうね。寝息を塞ぐというのは、けっこうエロチックかもしれない。「熟睡の女」の寝息だと、もっと殺人ぽくなるかも。。あと、今改めに見たら、熟睡で寝息というのがくどいのですね。だから余計に美しい男のような気がしないのだと思えてきました。
満月:たしかに、色気もなにもなくしている犯人は<熟睡>でしょうね。うたたねとかだったらもっと「その後の展開」が想像できるんだけど、熟睡の男はドテッとしているだけで何の反応もしそうにない。いびきが止まるくらいっていう(^^;その場合でも「寝」の重複は句の拡がりを阻みそうです。じゃ、「息を塞ぐ」かっていうと、やはり<寝息>はただ息というのと別物のような気もするし。
「熟睡の女」ならちょっとドラマがありそう。で、やっぱり殺人事件。
ぴえた:わたしはくちづけかな?と思っていて、みなさんの殺人説感想を読んだ時、どうすればくちづけ説を読み取ってもらえるようになるだろうってしばらく考えたんです。作者さんには失礼かもしれないけど、あーでもない、こーでもない、いろいろやってみて、くちづけ説を前に出せば出すほど「勝手にのろけてなはれ」みたくなって、あきらめたんです。(わからなかったの方が正直かな)
熟睡してるおんなのひとが殺されてしまう方が、読んでて面白いよ〜〜〜(作者さんごめんね)
熟睡と寝息が重複してるって全然気付かなかった。
好きなひとの寝顔にちゅしたいなんて、不届きなこと考えてるから、冷静に鑑賞してなかったんだね〜反省しようっと。
作者さん、これからもがんばってドキドキする作品詠んでね〜〜☆

鶏卵は魚(うを)よりつめたくて五月   千野 帽子

満月:この句にあまりコメントがついてないんですが。私はとても好きですが、言葉がかっこつけすぎと感じる方もいるかもしれないと思っています。皆さまのご意見を。あれ、なんか司会してない、私?
薫:いいなぁとは思ったのですが(うを)がどうしても気になってしまいました。一句の姿、というのも私にとっては重要な要素なのでたぶん作者の方は「誤読しないでね」という意味を込めたのだと思うのですが。皆さんはあまり気にしていらっしゃいませんか?
満月:たしかに。句またがりではあるけど全部の音数は17音なのだからわざわざ付ける必要がないですね。そこに作者の意思の支配のようなものを感じるかどうかでしょうか。私はこれが(多分作者の本来の表記上の希望である)ルビであったらそれほどは気にならないと思ったので採ったのですが。
あずさ:鶏卵は魚より冷たいんでしょうか?わたしはどうも説得されなかったのですが。鶏卵が冷たいということは、冷蔵庫に入っていたのか?少なくとも有精卵ではないような。。有精卵だったとしたら、卵はすでに死んでいる、わけですよね。どう五月なのかも、ピンと来なかったのですが、もしよろしかったら説明していただけますか? わたしには読みとれていないだけなのかもしれません。
満月 :(あずさ:冷蔵庫に入っていたのか?)私はそう解釈しました。卵は常に冷蔵庫にあるのが普通のように思うし、魚は買ってきてそのまま台所にどん!と置いて調理にかかるような。・・もちろん冷蔵庫にいれてあることもあるでしょうが、卵はいつも冷え切っていて魚は冷凍でもないかりぎ芯まで冷え切ってない(買ってきて冷蔵庫に入れてもそれほど冷えない)、という実感があるのですが。
(あずさ:少なくとも有精卵ではないような。。有精卵だったとしたら、卵はすでに死んでいる、わけですよね。)うーん、有精卵かどうかは考えなかった。。私には、なんとなくこの魚は動き出すんじゃないかという生な感じがして、卵はいつでも死んでいる、と思っていたようです。
(あずさ:どう五月なのかも、ピンと来なかったのですが、)私が一番卵の冷たさを気持ちよく感じる、いわば冷卵の旬(^^;と感じる時季とまさしくぴったり一致したのです。冬は卵の冷たさは恨みたくなる。春になればそれがなくなったことにほっとする。初夏になって初めてその冷たさが心地よく感じるのですね、私は。もっと暑くなると、魚もガンガン冷蔵庫で冷やしてないとまずいですから動き出しそうな生な温感(冷感)の状態から、今度は「死魚」という硬直した感触をともなう冷たさに感じる。・・・・・でもこういうのは個人差が大きいでしょうね。私は毎日料理していて、手にその冷たさの微妙な違いや感触がありありと蘇ってくるのですが、といって毎日料理している人がみんなこういう感じをもつとは思えないところが難しい。
あずさ: なるほど。わたしは鶏卵はどうも鶏がポンと生んだ生み立て、魚はまた泳いでいると思ってしまったので、冷たいのがなんか嫌(←嫌という言い方はへんですが)だと思ってしまいました。普段料理していない証拠かも--;。

帽子売り場に次々帽子映す鏡   またたぶ

満月 :「別の物を映して欲しい」と選評にかいたものの、やはりここは世界中に帽子しかないという異常事態を怖がりたいと思い直しました。
またたぶ:少し評を上げていただいたんならうれしいんですが……?帽子売り場は女の虚栄を一番象徴的に表わしている気がするんですね。うっとりと次々帽子をかぶっては眺め、鏡自体は冷ややかに移すのみ、なんて、ここで自解してるようじゃー ブザマの極致
満月 : 虚栄と冷ややかな鏡・・・ふうーーむ、そういう対照でしたか。で、ここは作者の意向は無視して(^^;パニック映画的映像の怖さと、それが帽子であることによるちょっとポップな感じを楽しみたい、と思います。
(またたぶ:なんて、ここで自解してるようじゃー ブザマの極致・・・かも・・)
(⌒∇⌒;

雨上がり 深呼吸する いちごかな   にゃんまげ

山本一郎:575毎に字を空けてある俳句があると、上記のような批判や「字空け無意味」といった批判が必ずといってなされます。私はこれに疑問を感じています。私も昨年の7月に俳句を作り始めたとき、ほぼ文節ごとに一字空けていました。そしてニフティの現代俳句の部屋に投句したとき同じような批判がなされました。で、私は字詰めを基本としました。納得したわけではなく、字を空けると、俳句の内容よりもそのことにチェックが入るからです。それがあほらしいのでそうしているだけです。
 さて、私は、字空けを基本にしたってかまわないと思います。そうしておいて、不都合なときや、何らかの効果を期待するときに字詰めをおこなう。そんな人がいたっていいのではないかと思います。
 私は、「字空け」「字詰め」は習慣の問題だと思います。だから、「字詰め」の世界でいる人は、機械的な「字空け」の俳句をみると違和感を感じるだろうし、「字空き」の世界でいる人は「字詰め」の俳句をみるとやはり違和感を感じると思います。
わたしは、「字空き」「字詰め」、どちらにも染まっていないので、どちらも別に違和感はない。ただし、「これは字詰めした方がおもしろい」「これは空けた方がおもしろい」というのはあります。
。今私は「字詰め」を基本にして作っているので、「空け方」についてあまり考えなくてもいいという部分と、「空け方」を考える楽しさがないという部分があります。
。満月さんへ、「詰めて書いてください」というのは、よけいなお世話だと思います。575で作っていない人に対して、575で作ってくださいといっているのと同じだと思います。
。斗士さんへ、「字空けの意味が分からない」というのは、字詰めの句に対して、「字詰めの意味が分からない」「字詰め無意味」といっているようなものだと思います。
。千野さんへ、字空けで書いたっていいじゃないかと言いたくなります。
 さあ、反論くるだろうなあ、どきどき
斗士:「意味がわからない」が、なぜ「無意味」というふうに解釈されてしまうんですか? わからないことを全部「無意味」で片付けるなどという暴挙はしません。単に、もしあの句が一字空けじゃなかったら僕は選に入れてただろうという、それだけです。それは僕個人の感覚であり、他の人にそれを強要するつもりは毛頭ありません。
一郎: 斗士さんじゃないんですが、以前から「字空け無意味」という評がよくあったので、今回の斗士さんの「意味が分からない」とごっちゃにしてしまいました。それから、斗士さんの評にいちゃもんをつけたのは、「強要するな!」と言うためではなく、議論をしたいためですので誤解のないようにしてください。
  私はこの句の作者でないので、推し量るしかないのですが、たぶん字空けにあまり意味はないと思うのです。それなのに、字空けの句が出てくるたびに、「なぜ字空けなのか」とことさらに言われる。一方字詰めの句はフリーパスで、「なぜ字詰めなのか」と問われることもない。
 と、私はそれを問題にしているつもりです。
凌:私は「読み」に興味があって参加してみましたが、「字空け」についての問題提起はいいとしても、「なぜ字詰めは問われないのか」まで理屈を引っ張られると興味は半減してしまう。
俳句には疎い読者からみても、意味のない字空けは折角五七五に圧縮した言葉の緊張感を緩めてしまうし、創作意図としての字空けも、その空間処理に「切れ」の意識を働かせないと句は弛緩してしまうのではないか。うまくは言えませんが、字空けは好き嫌いや個人の感覚の問題ではないと思う。
斗士:「字空けは好き嫌いや個人の感覚の問題ではないと思う。」という部分に関して、もう少しわかりやすく説明していただけませんか?「創作意図としての字空けも、その空間処理に「切れ」の意識を働かせないと句は弛緩してしまうのではないか」。。。空間処理に「切れ」の意識が働いているか、いないかを判断するのは読者個人の感覚ではないのですか?
あずさ:この質問にはわたしが答えたいです。ようするに「美意識」の問題。「ダサイ」んですよ。意味のない字開けは。
だからどうしてダメなの?などと素朴に質問されると、呆れる。この性格の悪さこそ、「俳人」、の「美意識」です。
生田耕作の「ダンディズム」に通ずるところの何かです。理屈を言い出せば恐ろしく野暮になってゆく。かく言うわたしも初期に一字開けをし、同様の指摘を受けました。で、すぐにそのダサさを納得しました。これ以上親切に説明する必要を感じません。そのダサさを払拭する何かを持ってこれない限り、一字開けはたんなる田舎もん呼ばわりされるという宿命にあるのです。
満月:私の場合は「口語俳句」出身ということでここのところはちょっと違います。山本さんも「口語俳句」二世なので「口俳協系口語俳句の一字空け」について触れなければならないと思います。
ご存じのように口俳協系口語俳句(以下「口語俳句」)は、吉岡禅寺洞が創始者です。果敢に俳句定型の硬直した部分に対して戦いを試みてきた人ですが、実は彼は多行表記もやっています。
「天の川」第十一号(昭和十年五月)
貝殻は日に濡れ男女抱擁す
白浜に螺鈿をおけり古人の死
これが引用されるときは、口語俳句の中でも
貝殻は 日に濡れ 男女抱擁す
白浜に 螺鈿をおけり 古人の死
となっています。
当時スペースの関係で一行書きで引用せねばならなかった際、現在多行の自由詩(または俳句)を引用する際に用いられる「/」は使われなかったようです。実は行かえの印としてやむなく使用された字空けがあとあと単なる雰囲気的な空けと誤解されてきた、あるいは古い人は行かえのつもりで使っていてもその経緯を知らない新しく入ってきた人は、「口語俳句」は字を空けるものだ、と思ってしまったのかもしれない、と私はにらんでいます。字空け表記で雑誌に発表した句を、句集では多行で表記する方もいらっしゃるのです。
実はかく言う私も、初期の頃多行表記で投句したことがあります。それに対して、「スペースの関係上現在は多行表記は出来ない。一行で表記する事になるが、行換え部分を一字空けるということでいいか」という打診を受けたことがあります。もちろん詰めてもらいました。「口語俳句」の世界には、そういう感覚がいまだに根強くあるように思います。
一郎:確かにわたしの父親は口語俳句をやっていた(いる)ので、子供の頃から目にする俳句といえば、575でない俳句、字空けをたくさん用いた俳句ばかりでした。だから、字空けが当たり前という環境で育ってきたわけです。
 そこへ来てニフティの現代俳句の世界の部屋に飛び込んだわけですが、カルチャーショックを受けたのは、「現代俳句」なのに、いまだに575で作っている人たちがいるということでした。それまで「口語俳句」=「現代俳句」だと思っていたのです。
 そんなこんなで、私にとって字空けは、習慣だったのです。食後歯を磨くのと同じくらい当たり前なこと。
その当たり前なことに対して、「なぜ字空けを」と過激に反応して目くじらを立てる。そこに疑問を感じていたのです。
 そして、今、自分の句は字詰めを基本として書いていますが、字空けの句を、「ダサイ」とは思いません。
字詰めが別にかっこいいとも思いません。なお、山口さんの「田舎もん呼ばわりされる宿命にある」というのは、とても山口さんの発言とは思えません。ちょっとショックを受けています。
帽子: ほらほら〜、あずささんったら〜、また問題発言しちゃってえ〜。クールダウン、クールダウンよっ。
(一郎:カルチャーショックを受けたのは、>「現代俳句」なのに、いまだに575で作っている人たちがいるということでした。それまで「口語俳句」=「現代俳句」だと思っていたのです。)
えっ、そうなの?だったら、「現代俳句」なのに「いまだに」575で作ってることにショック受ける前に、そもそも「現代」なのに「いまだに」「俳句」やってることのほうにショック受けるべきでは?茶道だって、相撲だって、詳しいことは知らないけど利休とか雷電為右衛門の時代から比べればぜったい変化してるはずだけど、あいかわらず手で茶杓を動かしてるし、あいかわらず柔道みたいな重量制限を設けていませんよ。って、これは屁理屈か。
 えーと、その前に575と「口語」を対立させるのはちょっと違いますね。整理しときましょう。「575」(定型)に対立するのは「自由律」であり、「口語」と対立するのは「文語」です。組み合わせは「文語・定型」「文語・自由律」「口語・定型」「口語・自由律」の4とおり。これに有季/無季の区別を入れれば8とおりになる。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺    正岡 子規これは文語・定型。
花あはただしさの古き橋かかれり    尾崎 放哉これは文語・自由律。
じゃんけんで負けて螢に生まれたの    池田 澄子これは口語・定型。
夜が淋しくてだれかが笑いはじめた    住宅 顕信これは口語・自由律。
もっとも、文語・口語どっちにも取れるものもあります。また、ぼくは極端な破調のつもりで句会に出したら、採ってくれた人の披講を聴いていると「あっ、なんだ、ぼくの書いた句は自由律だったのか」って自分で思ったこともありましたが
あと、口語俳句に自由律が多く、自由律に口語俳句が多いというのはどうやらそのとおりみたいですね。正確なところは知りませんが。
満月:(帽子:えーと、その前に575と「口語」を対立させるのはちょっと違いますね。)
はい。口語俳句協会系の、とおことわりしました。かっこつきの「口語俳句」。これは文字通りの”口語で書く俳句”とは違うのです。口語で書こうという所から出発して、だったら五七五は口語のリズムじゃないとか新しい社会現象や風潮、たとえばコーヒーを飲むというようなことやアドバルーンなどを書くのに五七五じゃ書けない、無理に「文語のためにある」五七五で書かず、口語なりの自然なリズムで書こうじゃないか、ということで自由律が基本となりました。私の印象では「口語俳句」は口語であるという特徴より、この自由律であるという特徴の方が強く感じられます。
しかし、自由律には自由律でかっこつきの「自由律」とも言うべき碧梧桐、井泉水、一碧楼系列の自由律のいわば商標のように使われています。そういうわけでかっこつき「口語俳句」として表記しました。内実は口語・自由律・無季ですね。例外もありますが。
一郎:(帽子:そもそも「現代」なのに「いまだ>に」「俳句」やってることのほうにショック受けるべきでは?)
いえいえ、これでいいのです。わたしの認識では、「伝統俳句に対して口語俳句がある。伝統俳句というのは575で季語を大切にする文語の俳句。口語俳句というのは、575や季語にとらわれない口語の俳句。そして、口語俳句=現代俳句。」であったのです。すると、現代俳句なのに575で作っていることへのカルチャーショックという意味が分かるでしょ。もっといえば旧仮名遣いを使っていることにはひっくり返ったよ。
帽子: なるほど。わかりました。で、上の鉤括弧にはいってる部分、いまは山本さんのなかで少しは変わったのでは? それとも、あいも変わらず575やってる現代俳句に慣れただけ、って感じ?
旧かなには旧かなの強みがあるので、これを捨てる気にはならないなあ。ぼくはかな遣いでは両刀なのです。旧かな使ってるときと現代かなのときとでは別人格。
若いロックミュージシャンが、日本にはもう残っていないアナログのスタジオ録音機器でレコーディングするためにわざわざロンドンに行くのは、アナログでしか作れない音があるからなんですけど、ちょっとその気持ち、わかるなあ。
一郎:かなり変わったなあ。最近自分自身が575で俳句を作るようになってるもん。575で俳句を作っている自分に対して「やばいぞおまえ」と意見している自分がいるという感じ。基本的には子供の頃から慣れ親しんできた「口語俳句協会系の俳句」に肩入れしてしまうんだろうな。。
斗士:(あずさ」ようするに「美意識」の問題。「ダサイ」んですよ。意味のない字開けは。)
ということは、「一字空けは好き嫌いや個人の感覚の問題である。」と思ってるわけ? 俺が問題にしてるのはそこなんだよ。
帽子:ちわーす。「字アキはいけないのか」という問にたいしては、「必要とあらば一字でも二字でも好きなだけあければいい」という答えしか思いつきませんでした。げんに、ぼくも半角アキを使って俳句を書くことがあるし、向上句会にも出しています(「ヴァニラの木抱く くるしくて一晩抱く」)
この問題については、「初心者VSキャリア」構図の陥穽で書きました。あくまでぼくの感じかたを述べたまでであり、これが正解だとは思ってません。つまり「字アキはいけないのか」ではなく、「なぜチノボー個人は字アキに厳しいのか」という事情説明です。

宇宙人より白魚が到着す   杉山 薫 肝酔 

満月:<宇宙人より>だと<が到着す>との関係がおかしくないでしょうか。「〜より (から)〜が到着する」というとどこかの場所から、という感じがするんですが。「宇宙より」だと具体像が浮かばないかもしれないけど。 余談ですが、これ、どうしても「地球寄ってく?」というCMを思い出します。

平和するそら豆御飯釜おなじ   城名景琳

満月: 一句から、常日頃ばらばらで孤食の家族が、なんとか<平和>なるものを探ろうと、皆が好きな<そら豆御飯>を道具にして<平和>な家族を演じている光景が見えてくる。<平和する>はちょっと怖い場を測るような目線を感じてなかなかだと思う。<釜おなじ>でずっこけた。
さて、つきすぎの話
あずささん、「そら豆」といえば世代によってはむしろ戦争を想起する人もいるのでは?「御飯」はあくまで「そら豆御飯」で独立ではないと思うけど、わざわざ離してつきすぎとする理由は?また「そら豆御飯」ならたしかに平和的な印象が私にもあるけど、ではこの<平和する>道具としてこれを用いたという句の意図はどうなるの?ここで具体的にこの句が盛り上がっていると私には思えるけど
最後の「おなじ」がつきすぎというのはさらにわからない。「おなじ」がこれらの言葉に付くなら、言葉はみんな付いているとしか思えなくなる。
文脈上必要な語も全体の効果を見るより先に「つきすぎ」と言うのは俳句の可能性を狭めることのような気がするのだけど。
あずさ:「そら豆」で戦争とは思ってもみませんでした。これは知識不足として、「そら豆」「御飯」「そら豆御飯」すべて平和そうなイメージ。また<平和する>道具としての「そら豆御飯」のどこが新鮮なのかがわたしにはわかりません。炊き込み御飯だって、十分平和。単なる御飯でも平和。単なるそら豆でも平和。つまり平和コンセプト、平和素材、構造的同じ、「おなじ」
「つきすぎ」と言わずに「つまらない」と言った方が良かったでしょうか。もちろん、平和するそら豆御飯の後に、バーンとジャンプして貰ったら、ぜんぜん別の印象が生まれた可能性はあります。
満月:ということは「絶対的つきすぎ」とは認識してない、ということでしょうか。この句をとても優れた句とは思っていませんし、新鮮とは全然思いません。むしろその古さ、ですね。努力して「平和」というよくわからないものを演出してみようという意図でしつらえられたわざとらしい<そら豆御飯>。そりゃまあ何御飯でもいいんだけど。ここはいかにも「それらしい」古くさいものでなければならなかったように思うのですが。私はこの<平和する>からは、前にも書いたように、現実としての孤食の風景が浮かぶし(子供に夕食の風景を描かせた番組のCMでは、信じられないような貧しいメニューが多かった)、この一句をまさしく大変につまらなくしてしまった大失敗の<釜おなじ>にしても、被災地の炊き出しやホームレスへの給食の配給が浮かぶ。私がこの句に見るのは非平和。この辺はチノボーさんも嫌う「思い」に属するものでしょうから、そういうものをそもそも俳句と認めない(あるいはもっとも退屈な「俳句」とよばれるもので自分はかかわりたくない)ということならまた別です。はじめからこの句を拒否しているのだから
で、それならそれでそれもありだと思います。
みなさんはこの「つきすぎ」というご意見に対してどうお思いですか?
帽子:私見ですが、満月さんはこの掲示板No.48/49以降、「付く」とか「近い」といった概念の定義を少し修整なさったように思われます。ぼくとしてはうれしいかぎりです。
 「思い」かどうかよくわかりません。てゆうか「思い」ってなんのことかよくわからなくて、だからいつも「いわゆる」とか「にゃんまげさんがおっしゃる」という意味で鉤括弧を使ってます。
満月:今回は「つきすぎ」という言葉を使わないで書いてみようと思いました。なぜなら、言葉のごく表面だけを見て「つきすぎ」と断定してさっさとその句を去るということになってしまっていて、つまりちゃんと読んでいない。これはまずい、と思ったわけです。で、つきすぎとはなんだろうと。私の場合、かなりの範囲で自分自身の想像力の限定やに起因する読みの拒否を伴っている(何と硬い表現)、という部分に気付きました。いちどちゃんと読んで見なきゃならないぞ、と危機意識的に思ったわけです。
 思いについては、そうですね。あたらめて言われるとなんとも定義のみつからない言葉ですね。人それぞれが「思い」という言葉を各人の思い(感情やその酔いを伴った意思の表出?)みたいなものであいまいに定義しているような。
この場合、現実の中から発する生活実感的思想のようなものでしょうか、ちょっとうまくいえませんが。そこを紙に書かれた?言葉そのものの無機的力によってではなく、感情を同調させないと読めないような書き方で書いてあるように思う。この「感情の同調を要求する」という書き方、こういうものに対して“思いがあふれている”“思いが込められている”等という感想が付くように思います。それが単に感情だけであればうっとおしいだけですが、そこになんらかの思想的な部分(重い意味ではなく生活実感からの信念くらいの)が感じ取られるとかなりよく受け取られる。・・・これは「口語俳句」の世界に充満している、うっかりすると「水戸黄門」的なものにも繋がっていきそうな部分ですが。
しかしながら、そういうものが好きな日本人が書き、読んでいる以上、ここを完全に無視することはできません。チノボーさんのような好みもあれば「水戸黄門」なり大衆演劇が好きな人もいるわけです。
まあ、これだけ若い人が集まっていてそういう句が特に好まれるとは思いませんが、だからといって切り捨てられない、というのが私の立場というか行き方です。
帽子:ぼくは大衆演劇的なものは好きですよ。大衆演劇。いい響きじゃないですか。
「人斬つて夕焼を濃くしたりけり   千野 帽子」。
昨年、亡き勝新に捧げた句です。演劇じゃなくて映画だけど。
「思い」俳句を大衆演劇につなげるのは、大衆演劇にたいして失礼では?「思い」とやらでわかってもらおうとする句って、水戸黄門とか大衆演劇のような気持ちよさを感じません。
どっちかっつうと新聞の投書とか(朝日なら「声」だっけ)、金井美恵子の『文章教室』のなかで主人公の主婦佐藤絵真がつづる「文章」に近いんじゃない?絵真は自分の文章ノートに『折々のおもい』という題をつけている。ほら、「思い」でしょ。しかも「折々」は絵真が『折々のうた』から借用したことになっている。彼女はデパートの文化講座の文章教室に通っているのだけど、彼女がそこに行くきっかけとなった広告は「あなたも自分のさまざまな気持を表現してみませんか。心の中を漂う雲をしっかりとつかむために…」とかいうのです。
ちなみにそこの講師は作家で、「今日この頃である」「という思いが体をよぎる」などの表現をチェックし、「もし、あたしだったら」という小学生の感想文に出てくるような展開に朱を入れ、「今日この頃である」なんて朝日の「ひととき」欄でも見ません、というと生徒が「それでは、今日この頃、の他にどんな言葉を使うのですか」先生「それをどう書くか考えることが、文章を書くということなのではないですか」生徒「昨今である、というのはどうでしょうか」先生「大同小異ですね」この一年というもの、向上句会の句一覧を見るたびこの場面を思い出す。
満月:(帽子:「思い」俳句を大衆演劇につなげるのは、大衆演劇にたいして失礼では?)
おお、考えてみたらまったくそうです。ごめんなさい>大衆演劇
私の言う思想的情念系?の「思い」とは違うのですね。教育その他による刷り込みやマインドコントロールを、それと気付かずそのまままるうつしに書くことがジコヒョーゲンでブンガクなのだと勘違いしているその内容と、それを疑う自分自身のオリジナルな意識を持たないことを言ってらっしゃるような
たしかに多いですねえ、刷り込まれた言葉、刷り込まれた言い回し、そもそも何かを書くなり作るなりすることがジコヒョーゲンとして人間にはあらまほしいとするこれまた刷り込み。。。こういうものに対して、では何と言ったらいいだろうと思うと、全く言葉がない。。
帽子:あ、そっちですか。そっちは大衆演劇よりもアングラのテント芝居か渡辺淳一(読んだことないけど)を思い出しますね。ところで満月さんのHP掲示板でぼくとのやりとりのなかで
> 今は権威というもの自体がないのに、それを「破壊」するだの「新しいもの」を目指すの求めるのということがやっぱり言われます。
とおっしゃってましたが、権威は、かつてのように目に見えるものとしてはないのかもしれないけど、衆愚というか弱者をよそおった権威が暴力を振るっているようです。短詩型特有の大衆性の副作用として、「わたしってこんな人間なの」っていう内容の句がどんどん出てきて、しかもそれを否定すると、「児童画は無邪気な童心の発露なのだからどれひとつとして技術の欠如をもって否定するべからず」的反応を取られたりして。
ああっ、どんどんタイトルの句とコメント内容ががずれていく。
満月:わ、わたな、べ、、、じゅ、、じゅ、じゅ・・・ひくひく。。あ、つい感情的反応を。
この手の「暴力」にさらされていますね。誰でも何でも書いてみる、なんでもありの混沌から時期が来ればなにか面白いものが・・・と期待していたのですが、どうも甘かったらしい。ことさら「そのまま」「素直」「子供の心」を強調する人の中には、実はそれ以上に出られないことがコンプレックスで、そこを開き直った結果という場合がありますねえ。そういう人は「初めてヒョ−ゲンということが出来るようになって嬉しい、楽しい!だから皆さん、これこそがホントーのゲージュツですよ」となってくる。この状態で「先生」化してしまう人がいて・・・・・勝手にやってる分にはべつに結構だけど、こちらはこちらで楽しんでいることを「誰にもわかる表現じゃない。そういうのはマインドコントロールされている」とまで言われて攻撃された日には・・・どうすることもできませんし、人が楽しむのはいいと思うし、、、困った。
(帽子:ああっ、どんどんタイトルの句とコメント内容ががずれていく。)
えっと、だからこれが「釜おなじ」の向こうに繋がっている部分だったりする。
まひる:ん〜〜・・・わたしは川柳書きで、俳句を書くひとではないのですが、これって短詩型一般の問題のような気がします。青梅マラソンや阿波踊りみたく参加することに意義がある、という考え方が一方にあってそれはそれで間違いではないし、そういう感覚で参加しているひとたちを否定はできないんだけど、「誰にでもわかる言葉で書いて欲しい」と押しつけてくる。「誰」をどこに設定するかは書き手が決めることですよね。しかし彼らが言う「誰」はつねに「私たち」でしかない。それを指摘すると甘えから開き直りに移行する。散文の断片を書いたり読んだりしたいのなら、エッセイ書けば〜〜。と思ってしまう。
うう”、、、またずれてしまったような・・・
帽子:この問題は大きいですね。新しくtreeをはじめてみます。よかったら、<俳句「大衆性」の陥穽>treeのほうへどうぞ。

湿らせた紙や母送る筍   城名景琳

景琳 :「母よりの荷や筍に湿し紙」これだと作者の母が送ってきたことになるけど,「湿らせた紙や母送る筍」作者がいただいたタケノコに,他人の母親の愛をみるから,切れ字の「や」の意味があるのだ.
俳句は作者本人だけではなく,もっと広がりを詠みとってほしいですね.
帽子:これでも、やっぱり「他人の母」というふうには読めないんですけど…。
満月:え?どうして後の方(「湿らせた紙や母送る筍」)だと他人の母に?やっぱり親子としか思えませんが。
「湿らせた紙”で”母送る筍」で意味的に繋がっていると思うので、わざわざやで切る意味はないように思いますが。
ところで俳句自体に関係はないかもしれませんが、「他人の母の愛をみる」ことで感動するというのもちょっとわからない。
こういうネタがあったら私なら「湿った母に包まれてきた筍」とやってしまいそうです。なんだかこの<湿らせた紙>にぞっとする部分があるので。・・・いやいや作者の方の愛情は尊いです。私の性格です。・・・これ川柳ですね。
あずさ:「湿った母に包まれてきた筍」← これ、いいっす。この性格の悪さ!(←褒め言葉)愛してるっす。

目借時フリーズするかパソコンや   べる

満月:健介評にあった<パソコンや>を「パソコン屋」、<フリーズ>を強盗が言うというあの「フリーズ!」に置き換えてみると、「パソコン屋に強盗が入った。覆面の男が拳銃を突きつけて『フリーズ!』がたが たふるえつつ両手を上げる店長、あたりはかわずの目借り時・・・・」 なんだかドラマが生まれそうな。。

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