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第22回 青山俳句工場向上句会選句結果 上巻

(長文注意!)

向上句会とりまとめ:山口あずさ@歌舞伎町の女王練習中♪   


投句:宮崎斗士、千野 帽子、城名景琳、白井健介、後藤一之、満月、凌、いしず、朝比古、谷、明虫、またたぶ、けん太、足立隆、杉山薫、いちたろう、室田洋子、摩砂青、ぴえたくん、村山半信、(h)かずひろ、とーきち、すやきん、秀人、秋、夜来香、志摩輝、萩山、万作、子壱、神山姫余、田中亜美、二合半、来夏、林かんこ、河童、山口あずさ

選句協力:古時計


全体的な感想

帽子:ところで今回はいままででいちばん苦慮したお題。なにせこの字を俳句のなかに入れただけで寒ーいおポエムができてしまうのだから始末が悪い。「黄水仙三本摘んで旅終わる」「日脚伸ぶ旅人にもどりたくなる」「旅を待つ薔薇の香りに夜想曲」「旅の荷に野にあるままに赤のまま」「とざされてやがて旅する君の胸」「振向いて竜胆の花旅支度」「旅願望ぽぽんと弾んで年男」「木蓮の蕾うながす遍路旅」「渡良瀬のフーガの風に旅装解く」「生き恥をかき捨ての旅じき終わる」などの風流ぶりやおポエムが山盛り出るだろうとは、ここ数回の向上句会の流れからいって覚悟していたが(てゆうか拙句もその域を出ていない)、ショックだったのは「菜の花や地獄極楽ひとり旅」「からっぽのからだに詰める旅のめし」「旅路とは何ぞや猫の冬日向」「鳥雲に金あるうちは旅すると」「帰る家なくて旅寝の空を見る」「蓄えは冥土の旅に六文銭」(「旅人すれ違い続ける春障子」「陽炎を数える旅や老夫婦」も怪しい)など、したり顔の「オヤヂ名調子」があまりに多いことでした。マジでヤバイかも。
とーきち:初めて参加させて頂きました。無季・口語体・自由律・伝統俳句、、、多種多様な作品を同じ土俵で裁かせて頂き、楽しかったです。(※とりまとめ人注:文字化けにより中略)読み手の想像力に委ねる、と言われたら、それで議論は終わってしまうのですが、作品に迫る鍵のようなものがなければ、それは表現の完成度の問題だと思うのですが、、、
1情景が見えて、かつ共感を覚える。
2情景は見えるが、陳腐で共感を覚えるには至らない。(だから何?の問いに耐える力を持たない)
3情景は見えないが、なんとなく惹かれる。
4情景は見えず、表現にも惹かれない。
の段階で選句させて頂きました。伝統俳句から超現代的俳句まで同居する「青山俳句工房」の方向性が楽しみです。
ぴえたくん:お題が「旅」だったから地名が目立ちましたね。わたしもつい地名を使ってしまいました。「旅」をさりげなく使ったつもりが、うーん、きっと何の印象も無い句になってしまってるんだろうなあ。。反省。今までのお題の中で「旅」が一番むずかしかった、と思っていたけれど、今度の「書」はほとんどお手上げ状態です。ああ、またお熱が高くなるわん(>_<)
半信:兼題出題者にも真意を尋ねてみたいところですが、「旅」という言葉を詠みこみのまま作っていたのでは、飛躍乏しくなってしまうおそれはないでしょうか? そういう意味で、通信句会初参加の私は「旅」の心・気分・イメージをうたえばよいと勝手に拡大解釈してのぞみました。ご存知の方も多いとは思いますが、1994年に出版された『世紀末(とき)の竟宴』(宇多喜代子他共著)は、題詠の面白さを十分に味あわせてくれる好著です。
いちたろう:前回、はじめて選句させていただいた時、私の選んだ句は4点句以下でした。今回も、高得点を取りそうな句の想像はつきます。だけど、浜崎あゆみやグレイやコムロを聴かないで、レディオヘッドやブランキージェットシティーや久石譲などを愛する私には、ちょっと恥ずかしくて選べませんでした。叙情、雰囲気より「構造」で選ばせていただきます!すみません。(そういえば、4年ほど前、初めて青山俳句工場の冊子を購入したときはかなり共感し、感動したものですが、今回共感した句はほんの1、2句でした。私の「よみとり力」が鈍っているのでしょうか?う〜ん)
けん太:私事ですが先日まで上海に半月余りいました。自分たちをストレートに主張する人々との会話に慣れるのに苦労しました。それだけぼくたちは曖昧な言葉を使っているんでしょう。俳句はその代表的な表現物であることを今さらながら感じます。イメージをとにかく膨らませる。そんな句をつくりたいものです。今回も「理」の勝った句が多かったように思います。
二合半:今回は好きな句が多かったです。自分は冬よりも春の方が詠みがいがあるのですが、みなさんもそうなのでしょうか。それとも自分が春と同じで、どことなく「ぼ〜」としているから?
景琳:どうでも良さそうなの選びました。情緒があるわけでもなく、あまりひねってもなく。いま風邪ひいてるので、これ以上悪化しない句を選択。
朝比古:俳句はやはり五・七・五の定型がイイなあと思ってしまう私を再認識した。
秀人:春になり秀句そろってシュールなり/伊勢参りはるかに香る波の色/愛はかのクロスの受難よりはじむ/というような印象でした。エクセレント。
(h)かずひろ:レベルが高く、他にも選びたい作品が多くて困りました。
古時計:のびのびとした若さを感じます。始めての投句、選句で時間がかかりました。
:5句選はなかなか厳しいと思います。外にも取りたい句がたくさんありました。
:俳句を読むという手応えより、言葉の意味を超えて生み出す力のすごさのようなものに興味があるし、今回の句はどれも何かを産みだそうとする力が感じられた。
杉山薫:毎回、うーーーんと唸る句を楽しみにしているのですが、今回すごく迷いました。春になったことだし、あっと驚く刺激的な句が読みたいなぁ。
来夏:二回目の投句になります。前回は、とりあえず票をいただけたので感謝しています。選句は前回も思ったのですが難しいですね。実感の沸かない句がそれなりにあるので、逆選を選ぶのにも一苦労しました。今回、皆さんが私の句にどのような評価をするか楽しみです。
河童:初めまして。とりあえず様子を見ながら参加させていただきます。投句は不定期になると思いますが、宜しくお願いいたします。
摩砂青:超句会での反論に対する反論を有難うございました。言葉に対する情熱とエネルギーに感じ入りました。また論戦を試みませう。
すやきん:旅という題はそのものというのは難しいですねえ。旅をして出てくる俳句は多いのですが。でも旅というのは色々ありますねえ。銀河鉄道の旅なんて出来れば幸せでしょうね。冥土に行く途中に行けるのでしょうか?
満月:今回、とっくに選句を送ったと思い込んでいてすっかり遅れてしまった。初心者らしい句がまた増えたが、この部分にどう対処していくか。課題だ。
健介:今回さらにコメントが少なくなりました(かもしれない)が、楽しんで読ませて頂きました。以下業務連絡「千野さん、その後アレはどうなりました?」以上です。


20点句

朧夜のわたし朱肉になりたがる   宮崎斗士

特選:凌 特選:満月 特選:輝 特選:けん太 洋子 夜来香 帽子 朝比古 青 秋 子壱 一之 亜美 いちたろう いしず (h)かずひろ 逆選:二合半

二合半:「朱肉」ですかあ。すごく気になる句でした。
朝比古:解るような気がする。
亜美:朱肉のどぎつさ(字面も)はもとより、いつのまにか掌の端っこを汚す朱肉には始末の悪い女の印象がある。朧夜の不穏な感じと合う。
(h)かずひろ:女の子のわがままを突き放すべきか受け止めるべきか?男の子の課題のひとつ。
いちたろう:「朧」と「肉」の対比がいい感じ。「夜」に「朱」は映えませんが、夜で見えない方が「肉」って感じがしてそそられますね。どのような心情が朱肉に共感するのか、知りたいです。自信に満ちているのでしょうか、寂しいのでしょうか、個人的には寂しい方がシリアスで好き。
子壱:意味はわかりませんが、朱肉(に苦?)になりたがるのも悪くは無いかも。
古時計:朧夜と朱肉の関係がとてもいい。ぼんやりとあいまいな夜そして、真っ赤な強くそれでいてふっくら感「朱肉になりたがる」という言葉が好きです。
秋:こういうエロスはいいなと思いました。
凌:「肉になりたがる」はエロチックだしすごい。「私」がどんな「朱肉」に変化してゆくのか、こんどの「朧夜」にじっと眼を凝らして確かめたい。
夜来香:妖艶なかんじ、こういう濡れ感はいいと思う。
満月:な、なんというものに。。あの、責任持てませんよ、持てませんけどなってみてください。奇抜なところをねらったようでいて、実はうにゅうにゅした朱肉と朧夜は妙にマッチしている。うにゅうにゅ賞をあげたい。
けん太:日頃は、あまり縁のない(ボクはそう思うんですが)「朱肉」がこの句のポイントかな。それが朧夜に必要になって。たとえば、離婚届とか借用書とか、いやいや結婚届でもいいか。はんこを押す。そのときの「朱肉」のぬめり感。情念のようなものまで伝わってきます。
輝:接吻のイメージですかね。すごく色っぽくて好みですね。
帽子:この作りかたに納得。
またたぶ:「わたし〜なりたがる」のかまととさはイヤ。でも「朱肉」って使いでがありそう。参考にさせていただきます。
あずさ:ちと、怖いめの発情俳句。
健介:(藤原紀香ふうに…)なったらええやん。
つっこみ!
あずさ: まずは、おめでとうございます。参加者の半分以上が選んだ。文句なしのトップですね。ちなみに、点数には入っていませんが、今回選句強力してくださった古時計さんの選も入っています。ところで、この<わたし>女性だと思いましたか? わたしは別に男性でもいいと思うのだけれども。(h)かずひろさんが、女の子のわがままという書き方をしていらっしゃいますが、そんなかわいらしいものだとはとても思えない。。。わたしはいろいろと考えすぎて、恐ろしくて採れなかったのです。
帽子:今回、特選・逆選・無印の句にはこまごま書いたけど、そういえば並選に採った句にはあまりちゃんとコメントしてなかったのに気づきました。
<わたし>は男だと思いました。作者の性別は不問ですが、語り手<わたし>は男なんじゃないかと。とくに根拠はありませんが。
(あずさ: (h)かずひろさんが、女の子のわがままという書き方をしていらっしゃいますが、そんなかわいらしいものだとはとても思えない。。。)
ぼくもそうは取れませんでしたね。ちなみに「女の子のわがまま」自体かわいらしいと思えない。怖いです。
ふだんだと「わたし」なんて人称代名詞がはいってるだけでかなり苦手なのですが、日常言語では一人称単数につくことが少ない「たがる」が堂々と「わたし」についてるでしょ? 現代俳句ではよくある手かもしれないけど、でもこれはよかったんですね。「わたし…たがる」というこの発話は、今回の出句リストにありがちな自己愛とは違った、分裂した「わたし」の片割れ、分析の対象としての「わたし」を感じさせて、リアルというか生々しい説得力があるのです。朱肉には「肉」がはいってるわけで、人肉も赤いし。

12点句

新宿は濡れてるほうが東口   千野 帽子

特選:半信 凌 明虫 満月 谷 青 子壱 景琳 薫 輝 ぴえたくん 逆選:亜美 逆選:すやきん 

明虫:そうかもしれない。
景琳:西口は乾いてるのか?
半信:新宿は濡れて乾いて、乾いてまた濡れる、都会の陰影(コントラスト)を感じさせる街。その生々しさに賛成。されど、濡れているのは西口でなかろうか? 西口ファンの私としては、商い(ハレ)の東口、情念(ケ)の西口って感じがするんだが。フォークの歌声に集まる西口広場という時代もあったそうな。今は、世捨て人の家々が。西口には負のイメージがよく似合う。
亜美:太ゴシックで書かれた妄想という感じ。それなりに効いているのだろうが。
子壱:なぜか理由は無いのですが同感。
谷:「東口」に特に意味はない。西口でも北口でもよいわけだが、たまたま作者にとっては東口であった。感覚の切れ味がよいので成立した作品。
ぴえたくん:土地勘が無くてわからないから「へーそんなんだー」と納得してしまうだけかもしれませんね。駅でも土地でも正面玄関と裏口の様に雰囲気の全く違う「口」があるからうまく表現されていると思いました。
凌:このいい加減さ、いや本当かも知れない。
杉山薫:こう言い切られると気の弱い私はすぐ説得されてしまう。
満月:は。そうなんですか。思いっきり納得させられてしまった。
すやきん:川柳でしょうか? 立っている方は西口?
輝:西口はたしかに乾いている感じですね。言い得て妙。   
あずさ:<東口>は<濡れてる>ような気がする。が、<新宿>が動くように思う。
つっこみ!
あずさ: 多分に感覚的に読まざるを得ない句だと思います。選句評に新宿が動くと書きましたが、新宿自体、全体的に濡れているような気もするし。。。東口、西口、南口、(※新宿駅には北口はない。)すべて濡れて、その濡れ具合が少し違うだけのような気もする。池袋なんかもずいぶんと濡れているし、渋谷も濡れてる。吉祥寺だって濡れてる。ラブ・ホテルのあるところはぜんぶ濡れてるのか?
斗士:東口には、歌舞伎町や花園神社やゴールデン街があるんだよね。ホテルもたくさんある。まさに「濡れてる」という形容がぴったりだと思う。的確だと思う。(ゴールデン街もからっと乾いているという印象ではない。じとーっとした感じ。)でもあまりにもぴったりすぎて(つき過ぎて)採れなかったというのが私の意見です。でも「濡れてるほうが東口」って便利なフレーズだな。わかりやすい。待ち合わせの時とかに使えそう。
あずさ@西武新宿線沿線の住人:この句、身近な場所として新宿を知っている人は採ってるのだろうか?特選の半信さんは知ってるか。。。青さんも知ってるよね。。。学生の頃、新宿が嫌いで、ぜったいに新宿を通らないようにしているという人に出会ったことがある。何かにこだわるというのが流行っていて、彼にとってのこだわりは、新宿を通らないことだったのだろう。ずいぶんと不便な思いをしていただろうと思うが、彼は新宿について、あれこれと感じていたのではないかと思う。他の人よりも余計に。。。あの雑多な街を表すのに、やはりこの句はインパクトに欠けると思うのだが。。。新宿を熟知してる方、ぜひ、コメントしてください。
朝比古:はじめまして。つっこみ初体験の朝比古と申します。過去、西武新宿線・JR中央線の住人で、今は京王新線の幡ヶ谷在住です。新宿には、一家言あるつもりです。今後とも宜しくおつきあい下さい。
この句、インパクトに欠けるというか、何となく底の浅いかんじがしてしまったのでとれませんでした。俗な意味合いでの「濡れ」はやはり歌舞伎町あたりの風俗やラブホテル街よりの連想であろうし、実態としての「濡れ」であるならば、やはり飲食店等の打ち水或いは、昔コマ劇場のところにあった噴水かなにかからの連想であろうし・・・。作者にそんな意識はなかったのかもしれませんが、もしかしたらそういう連想ゲーム的な発想から出来た句なんじゃないかなと思わせてしまうのは、やはり句の弱さだと思います。 これは私見ですが、この句、有季にすると、作者の想いが出てイイ句になると思うんですけど。
(行春の新宿東口濡れて   とか・・・。これはあくまでも例ですが・・・。)
作者:皆様今晩は。作者です。あの句にあれだけ点が集まったことに驚いております。
(朝比古:俗な意味合いでの「濡れ」はやはり歌舞伎町あたりの風俗やラブホテル街よりの連想であろうし、)
ほとんどそれだけの句であります。それ以外に他意もなければ余情の如きものも狙っておりません。読んで一笑して頂ければそれで幸いな句だと思います。意識した訳ではありませんが、季語がないせいか川柳に近い、と言えば川柳作家の方にも失礼でしょう。俳句は一般に、未知の物と出会う文芸だと思いますが、この句に限って言うならば、既知の物を如何に効率よく短縮するか、その短縮した結果物を如何に人の記憶に残して頂けるか、それのみに腐心した結果かくの如き物が出来上がったのです。まさかあのように点が集まり、さらにはこの場で取り上げて頂けるとは意外でした。作者は幸福です。
凌:確かにこの句の立ち上げの動機というかヒントは歌舞伎町あたりを指しているのでしょうが、一句として提示された段階では、もうそこからは切れた別の空間に飛躍しなければ、ただの「言い得て妙」で終わってしまうのではないか。また逆に連想ゲ−ムの答えのようにすぐ底が割れてしまうということは、この句がそれだけの力しかなかったということかも知れない。私は新宿に立ったことも通ったこともありませんし、当然その地理もまったく知らないのですが、この句の意味の通用しないいい加減さが俳句として新鮮だと思っていました。東口に歌舞伎町があるということを知っていれば入選にはしませんでした。しかも作者から早々にに「ほとんどそれだけの句であります」と言われてしまってはもう興ざめするしかありません。
作者:「新宿」という語は、その地を知る人たちだけの為に有るとは思いません。私はこの句を作るに当って、「新宿は東側に水商売や風俗があるから付き過ぎだ」と、新宿を知る人から言われる事は承知で、それでも止むに止まれず作りました。その地を知る人は、恐らくは新宿という語を、その土地に住んでいるとか、西武新宿線沿線に棲んでいる人だけが特権的に使用し得る閉鎖的な物神(フェティッシュ)として使用し、自らの知識を盾に「この句の新宿は新宿の本意に叶っていない」とか、あるいは「新宿を単純化している」と批判なさるであろう。このように私は予想しておりましたし、その予想は実際にこの場で成就致しました。私は寧ろ、「新宿に立ったことも通ったこともありませんし、当然その地理もまったく知らない」という凌さんのような方が、予備知識無しにこの句に向い合った反応が知りたかったのだと言えます。
作者の介入が早すぎた事は私も認めます。これは申訳有りませんでした。しかし、前回の私のコメントに述べられていたのは、この句の成立事情に過ぎないのであって、この句の「正解」ではありません。私は、「新宿」という語のイマージュが、その地を体で感じていない人にどのような感じを与えるのかを知りたかったのかもしれません。なぜなら、私は新宿について何かをリアルに伝達しようという気がなく、新宿という語の語感から出発して何が出来るか(私は新宿に限らず凡ての語について基本的にそういう接し方を俳句では心掛けております)しか考えておりません。この句が「新宿」に相応しいか相応しくないかは、現実のその地を知る人だけが決める事が出来るのでしょうか。凌さんは、現実の新宿を知る人がこの句の「正解」を握っているとお考えですか。だとすればこの句を「もうそこからは切れた別の空間に飛躍」させることを封じているのはそのような凌さんのリアリズム至上主義もしくは実体験至上主義ではないでしょうか。私はこの句について、現実の新宿という地を知る人がその体験・知識を使って批判なさる事は正しいと思います。しかし同時に、新宿をご存知ない人がこの句について語る事も、それはそれで正しいと思います。何故なら、句に有るのは「新宿」と云う語だけなのですから。原爆忌の句の正解を握っているのは被爆者だけでしょうか? 被爆体験の無い私には、原爆忌の句の好し悪しを云々する事は出来ないのでしょうか?又、全く未知の固有名が出て来る句を採った後、その固有名を知る人から説明を受けたとして、必ずしも当初の感想を「無かった事」にして良いものでしょうか。
凌:その後の歌舞伎町、ラブホテル、などの連想的な展開と作者ご自身がそれを肯定する「ほとんどそれだけの句であります」発言に、「なあんだ」と思っただけで当初の感想をなかったことにするつもりはありません。私は私なりの意味や現実を越える言葉の面白さを俳句に求めていますし、そのことはここでも何度か発言しています。決して現実至上主義ではないつもりです。ただ前回発言の「東口に歌舞伎町があるということを知っていれば入選にはしませんでした」は、「新宿」〜「濡れている」〜「歌舞伎町」となる連想と私の読みとの違和感からの発言であって、それ以外の意図はありません。
作者: 申訳有りませんでした。誤解して居りました。
ぴえたくん:わたしは土地勘ゼロ(新宿には今年二月に一度)で選びました。お客様をお迎えする日は、玄関に水を打って清める習慣があります。その清廉な印象を持って選びました。
あずさ:やっぱり、新宿を知らない人にとっては、新宿が動くのでは?ニューヨークに一度行ったことがあっても、ニューヨークを知っていることにはならない。というような句のような気がしてしょうがない。。。最初の印象は確かに無かったことにはならないでしょうが、説明されてしまえば、最初の印象は失われてしまうと思います。つまり、失われてしまうような最初の印象があった、ということになってしまいます。その街を熟知しない者が、その街を描いただけ、だとやはりつまらない。その街を熟知していなくても、その街に対する何らかの思い入れを表現した、というのであれば、また話は違ってきますが。もし、後者であれば、その街の住人にとっても何らかの発見があると思いますし。
凌:この句についてはほぼ一段落した感じでツッコミにくいのですが、「新宿」は動かせないと思う。早々に句の背景のようなものが出てしまって、しかもそれがかなり説得力があったがために、かえって「見えて」しまって句の力が弱まったと言えるのではないかと思いますが、たとえば渋谷とか原宿とかとは違う、混沌、退廃、あるいはエネルギッシュな活気といったものを抱え込んだ言葉として「新宿」があり、その「東口」がある。勿論そう思わせるのは、その先にある「歌舞伎町界隈」の広がりだと思いますが、「東口」を示唆する「濡れている」という言葉を得たとき、もうそこから先は切れてしまった一句がそこに立ち上がっている。そしてそれはもう地理的な状況ではない「新宿」が読者の前にクローズアップされることになる。「だからどうなんだ」と言われたも困りますが、私はこれで十分この句を読めた気分になっています。それと「シンジュク」という語感もこの一句からはずすことはできない。とまあ論理的なことは書けませんが・・・。
椎名林檎って「歌舞伎町の女王」と言われてんですか?、あるいはそんなタイトルの曲があるのかも知れませんが、何か卑猥でいかがわしくていいなあ。
帽子:「歌舞伎町の女王」は椎名林檎の曲の題です。昨年春、その曲を含むアルバム『無罪モラトリアム』が出た当時、ぼくは中村安伸さんにアルバムを強く勧められました。その晩彼はその曲をカラオケで歌いました。「歌舞伎町の女王」がぼくの持ち歌に加わったのはすれからすぐのことです。
ぴえたくん:(あずさ: 最初の印象は確かに無かったことにはならないでしょうが、説明されてしまえば、最初の印象は失われてしまうと思います。)
そうです。失われたやるせなさで、最初の印象を敢えて書き込みました。ううううう。
作者:うーむ。やっぱり介入が早かったのですね。申し訳ない。
ぴえたくん: 恐れ入りまする。いえいえ、しんじゅくを全然知らないわたしとしては、と抵抗したかったのですが、自分の中で、ダウンしちゃっただけです。
ニュースでよく聞く「歌舞伎町」が新宿にあるとは、知りませなんだ。「宿」のつく地名は江戸時代していて、作品中にあると、どうも時代がかって読んでしまうきらいもあります。。
わたしの発言はひょこひょこと千鳥足で申し訳ありませんでした。毅然とせねば!
少なからず衝撃もありましたが、濡れている、は素直に打ち水と受け止めて、しんじゅくの「新」と清廉さを増幅している、と選んだ時の印象を持ち続けます。
作者:(あずさ: ニューヨークに一度行ったことがあっても、ニューヨークを知っていることにはならない。というような句のような気がしてしょうがない。。。)
現実の新宿を知る人間ならば、句を「説明」する権利を有すると言う事でしょうか。
実体験至上主義?俳句に於いても、言語を、現実を指示する道具としてのみ使用なさるという事でしょうか。誤解無きよう。現実に新宿の名で指示される土地を知る人にこの句を解説する「権利」が無いと申している訳では有りません。唯、その立場に立つ人だけが実体験を盾に特権的にexclusiveに正解を持って居る、という考え方が有るのだとしたら、随分とリアリズム的な話だ、と感じるだけであります。無論、その様な反応を喚起したと言う事は、この句に言語として一本立ちするほどの力が無かった事の証であり、この句の中途半端さを立証しています。併し、句の出来を云々するのに、「事実」との相違(或は事実に対する不足)を第1の理由として論じるのは、原爆忌の句に対して「原爆はそう言う物ではなかった」と批評するのと同じで、そうする権利も必然性も十分理解出来ます。つまりその様な批判をなさる方は、その句を「事実を伝える道具」として見なしているという自覚はして頂きたいと考えて居ります。自分が実体験を持っているタームを含んだ句を読み、実体験に引き寄せて批判する場合、その場合の読者の特権は、言語外の特権でありましょう。その点、「不足」ではなく「つきすぎ」として批判なさった宮崎工場長の論点は、俳句のルール内での批判であり、納得出来ます。山口氏が「実体験」を根拠になさっているのに対し、宮崎氏は「東口には水商売や風俗が有る」という「知識」を根拠にしているからです。因みに、地方在住の人間は、観光俳句に出て来る「外部者の欲望の眼差しによって創作された地名イメージ」を、良かれ悪しかれ受け入れる事に慣れております(観光地と観光客との政治的「見られる←見る」関係を、娼婦と客の関係になぞらえた米国の女性歴史家の名は失念致しましたが)。新宿が「観光」の対象として、この句の如く浅薄な公的イメージによって俳句にされる事に、新宿を生活圏とする方々は慣れていらっしゃらない、と言うだけの事なのでは?
あずさ:(帽子:現実の新宿を知る人間ならば、句を「説明」する権利を有すると言う事でしょうか。)
権利を有するではなく、つい説明してしまうということです。つまり、幸か不幸か知ってしまっている。偶然側に住んでるんです。
(帽子:実体験至上主義?)
そう書いたつもりはありません。
「その街を熟知していなくても、その街に対する何らかの思い入れを表現した、というのであれば、また話は違ってきますが。もし、後者であれば、その街の住人にとっても何らかの発見があると思いますし。」
と、書きました。つまり、この作者は、新宿を知っているのではないですか?生活圏としての新宿を全く知らない訳でもないし、熟知しているわけでもない。となると、何らかの思い入れを句にする、あるいは、ちょっと知っている新宿を句にする、という話になると思う。ちょっと知っている新宿を、ぜんぜん知らない人に対して句にしてはいなかったか? と問うています。新宿という地名は、日本語を解する大半の人間が知っています。東京にある繁華街です。このイメージを句にしたのであれば、そこに住んでいる住んでいないは関係はなくなると思います。つまり、新宿の一枚のスナップ写真があって、これが鬼海弘雄さん(写真家)の写真だったら、素人の写真とは違うはずだ。みたいな話をしています。写真家がそこの住人かどうかは問題ではありません。新宿という地名は、新と宿が合わさった単なる記号ではなく、新宿というどうしようもない街を表す言葉です。本来のチノボーの句だったら、素人写真とは違うんじゃないか?ということです。
上記、じぶんにできないことを、他の人に望んでいます。(すみません。)
作者:名前が出てしまったので、余計な漢字を使わずに書きます。おそらく「観光俳句」の餌食になっている地域の住人は、もうめんどくさくて、その「つい説明」を諦めているのかもしれません。
ぼくは以前、キリスト教季語を使った句に逆選つけたことがあって、その基準というのが「偶然、キリスト教国に住んでいた非キリスト教徒」としての実体験だったのですが、なんとなく自分が「上からものを言ってしまった」感じがして、以後「つい」が出そうになると、どうしようかと思うのです。そういう意味では
(あずさ:上記、じぶんにできないことを、他の人に望んでいます。(すみません。))
これは、ぼくがあずささんや凌さんにたいして謝らなければならないことかもしれない。
「実体験至上主義? 」そう書いたつもりはないと思いますが、そう読めてしまう可能性はどうしても示唆しておきたかった。これは、選句する自分への警告でもあったのです。
(あずさ:ちょっと知っている新宿を、ぜんぜん知らない人に対して句にしてはいなかったか? と問うています。)
だれ「に対して」ということであれば、このサイトを見る人にたいして、としか言えませんね。理論上は、日本語を解しWWWに接続できるすべての人、実際上は当句会参加者および偶然このサイトを開けた人、ですから、その人たちの「新宿」にかんする知識・体験はそれこそ千差万別でしょう。
ときどき、句の質とは無関係に、とにかくしつこく頭に残るフレーズを作りたくなってしまうのです。たまに妙に覚えやすい句を作ってしまう(質とは無関係)のが本来のぼくなのかもしれません。たまたまつけたTVのCMに流れてた歌が、好きでもなんでもないのに頭にこびりつくみたいに、なんだか知らないけど覚えてしまうキャッチフレーズのような句を作りたくなってしまうのでした。
あずさ:わかるような気がします。が、われわれ青山俳句工場には、地名俳句の大家、中村安伸くんがいるじゃぁあーりませんか。(最近、向上句会に投句してくれないが。。。)彼の句に、<大田区を洗えば青く色落ちす>とゆうのがある。大田区で生まれて大田区で育った住民も、なんともつっこみのしようのない句だと思うんです。彼の新宿で象がでんぐりがえる(←これ、イメージだけ覚えてて、なぜか句を覚えていない。。。)句とか。きっと、いつもわたしがチノボーさんとモメる種になる「意味」というやつを、今回の作品は振り切れていなかったんだろうと思うんです。ながいことチノボーさんと「意味」について、あれこれお話ししてきて、チノボーさんの言う「意味」とわたしの言う「意味」の、意味の違いが、やっとわかってきました。わたしは既成の意味をぶっとばしたい。と思っていて、チノボーさんは、既成の意味を振り切りたい。と思っているのだと思うの。(なんか、とても素敵な日本語を羅列してしまいましたが。。。。)
帽子:ううむ。そうだったのか。かしら。かな。だろうか。(悩み中)100%振り切るのは、現実問題、無理な話と承知のうえでなんかやってんですけど。はっきり言えることは、この句は歌の歌詞を作るつもりで作ったということです。欧陽翡翡に「雨の御堂筋」という曲があって、作曲はヴェンチャーズなんだけど作詞は忘れた(阿久悠? なかにし礼? どなたか教えてください)。とんねるずの「雨の西麻布」(これは秋元康。作曲は後藤次利だったか見岳章だったかうろ覚え。見岳章はもと一風堂のメンバーで、代表作に美空ひばり「川の流れのように」や『ケイゾク』サントラなど)なんかはそういう伝統を換骨奪胎しているわけで、あと桑田圭佑から椎名林檎まで、その伝統を踏まえて仕事をしているわけですね。そこにささやかながら自分なりの捧げものをしたかったのかもしれないなあと、議論が一段落ついたいまとなっては思うのです。つまり、既成の意味に反することを書くのもいいけど、逆に陳腐なイメージでなんか書いてみたくなるときもあるんですよね。ただし、俳句で使われる陳腐なイメージではなくて、べつの分野で使われる陳腐。今回問題になったのはそれが固有名だったということですね。つまり新宿が、この現実世界には1個しかなかったせいで、問題が発生してしまった。そう考えると
(あずさ: きっと、いつもわたしがチノボーさんとモメる種になる「意味」というやつを、今回の作品は振り切れていなかったんだろう)
理由も上記のあたりに落ち着くのではないか、と。
ひょっとすると今回のは、「意味」というか「指示対象」の問題だったのかも。
薫:「雨の御堂筋」の作詞は、林春生だよん。「雨の御堂筋」は南沙織「17才」とともに1971年のレコ大新人賞。なかにし礼は、「雨がやんだら」。「戦争を知らない子供たち」が作詞賞だ。うーん。<http://www.jacompa.or.jp/rekishi/d1971.htm>
またたぶ:捧げものをしたい、という動機にはとても共感できます。新宿についても議論が深まりを極めたようですが、一点違う観点から。
<階段を濡らして昼が来てゐたり>
私の「濡らす」感はこの句の印象にかなり左右されます。どうも、俳句では「濡れている」が多用されている気がしてまして、「濡れるに甘えている」んじゃないか、と勘ぐってしまいます。こんな読者は作り手にとって迷惑でしょうけど。確か、以前「〜〜という遊び」という形が俳句には多すぎると書かれたのはチノボーさんではなかったかなあ。←飛躍しすぎ?
帽子:ご明察。ぼくは、一時「濡」を作句上禁じ手にしてたこともあるので、よくわかります。青山俳句向上本誌句会の合宿で、どーしても句ができなくて
< 肉筆の肉のみ濡らす秋の雨>
というのを作ったときも、「ほんとは使いたくないのだけれど…」という気持ちで作りました。
(またたぶ: 確か、以前「〜〜という遊び」という形が俳句には多すぎると書かれたのはチノボーさんではなかったかなあ。←飛躍しすぎ?)
とんでもない。飛躍どころか、ぼくの「あー使っちゃった…」という感じを見透かされたみたいで、…。今回は歌謡曲への捧げものってことで、自分を納得させて作ったんですが。うむむ、さすがはオリエンタル俳句シンジケートのエージェントですね。

11点句

ふらここに蜂蜜垂るる如くゐる   朝比古

特選:洋子 特選:またたぶ 特選:とーきち 子壱 亜美 けん太 いしず 明虫 

明虫:たらーんとした感じですよね。
亜美:春の情感がよく出ている。
けん太:単に「ぶらんこ」ではいけないんでしょうな。「蜂蜜垂るる」ごとくとはどんな状態なのか興味あります。焦燥感(おおげさですかな?)を覚えてしまうような、それでいてそれを許してしまう甘い時間なのでしようね。
またたぶ:徹底クラシック表記は戦略なんだろうな、きっと。「如く」はひらがなにしたらとは思うが、この「蜂蜜」にただならぬ含意を感じるのは私だけだろうか。理屈抜きにひかれる。
満月:ふらここは揺れているのかもしれないが、実は垂れている時が多いわけで、<蜂蜜垂るる>で両方垂れているような感じがする。
帽子:じつは<ふらここ>が嫌い。これを使っている句を見ると、いつも「俳句用語」に甘えてんじゃないかと思ってしまう。<ぶらんこ>でいいんじゃないの?
つっこみ!
あずさ:選句時にそれほど真剣に読んでいなかったかな、と今思う。はちみつには光を集めたような色と光沢がある。<ゐる>のは、わたしか、どこかよその子供か。光が集まっている<ふらここ>に <ゐる>。幸福そうな光景のようでいて、<垂るる>にどこか寂しげな様子が伺える。日溜まりの中で、ぶらんこに乗ったピエロが、うなだれているようでもある。
満月:なるほど。私はこのふらここの「ここ」垂るるの「るる」・・「ここ・るる」という語感が響いて、そこでなんともいえない独特の感触を持ってしまいまいした。そこは語感フェチ的なところのある私としてはとても気になる(いい意味で)。しかも両方垂れたけだるさがある種の嘆美性を醸し出していて、アブナイ感じもある。でも採らなかった。なぜかこの「ゐる」の主体がふっとなまぐさく感じてしまったのです。「如く」のせいだろうか?
帽子:うーん、なるほど。ひょっとすると作者は狙ったのかも。
そこが散文読みの詩歌音痴の悲しさ、どこか「散文の切れっ端」みたいなとこが俳句・川柳にはあってほしいと思ってるぼくには鑑賞できない点なんでしょうね。一種の「語感弱」(「色弱」に倣って言うなら)。
説明されるとなるほどなとは思うけど、自分で実感できるかというと自信ないです。いまだに
<ぶらんこに蜂蜜垂れるようにいる>
じゃだめなの? と思っています。
あずさ:(満月: なぜかこの「ゐる」の主体がふっとなまぐさく感じてしまったのです。「如く」のせいだろうか?)
わ、なんかこの感覚、わ・か・る。しっくり来ない和洋折衷みたいな。。。如くという言葉というか、文字の無骨さなのかな。
満月: 一晩頭でころがしててふっとわかりました。「ここ・るる」の語感、ふらここというふらふら〜〜〜、こ・こ・ことする夢幻的なもの、蜂蜜というかなり妖しいもの・・・ときているのに、「如くゐる」はまるっきり古典的な俳句そのものの表現。とくに「ゐ」。このへんで「やあ、一句ヒネリましたよお、に戻ってしまった」という感じのようです。
(帽子:<ぶらんこに蜂蜜垂れるようにいる>じゃだめなの? )
そういうわけで、やっぱりふらふら〜〜〜、こ・こ・こ、としてることろにこの句の面目?があるのだと思う。「ぶらんこ」じゃぶらんぶらんしてかなり現実的でこの感じはでない。つまり、<ふらここに蜂蜜垂るる如くゐる>と「ぶらんこに蜂蜜垂れるようにいる」とでは、句がまったく別の意図を持ってしまう気がする。語感による体感幻覚より内容が勝ってしまうというか。それが「散文の切れっ端」的ということなんでしょうか。
帽子:「語感による体感幻覚」を押しつけられるのが鬱陶しくて嫌いなのです。宮沢賢治のオノマトペが嫌いなのと同じ。
ただ、「内容が勝ってしまう」のは「散文的」であって「散文の切れっ端的」とは違うと思います。語感とか詩情という口実に恵まれるでもなく、かといって散文の意味伝達性を獲得するでもなく、ただただトマソンのように用途のない語がある、という状態が「散文の切れっ端的」ということだと思ってます。

9点句

陽炎を数える旅や老夫婦   宮崎斗士

特選:二合半 特選:ぴえたくん 特選:あずさ 一之 またたぶ 洋子 

二合半:歳をとったら私もこういう旅をしてみたい。いま隣にいる人と、果たして行けるかどうか!?
ぴえたくん:穏やかで温かみのある作品にひかれました。
またたぶ:切ってはあるが、「老夫婦」っておそらく「陽炎を数える旅」のようなものじゃないだろうか。と考えると「老」はない方がいいかもしれない。
満月:いいですね。欲を言えば<老夫婦>がステレオタイプな印象を与えるところが惜しい。
帽子:この上五中七にした段階で風流ぶりに陥る。下五になにを持ってきてもダメだと思う。よりによってこの下五はダメ押しでとどめを刺している。
あずさ:美しい。こんな老夫婦にならなってみたい。老恋人でもいいけどね。
健介:もっと数え易いものを数えた方が……
つっこみ!
凌:「陽炎を数える旅」に思いというか心情に即した発見のようなものは伝わって来るし、句の仕立ても悪くないので○にしょうかなと思ったけど、やっぱり「老夫婦」に落ち着けてしまったのでは読みを喚起する力は半減する。絵はがき的、あるいは心情の美しさはあるのですが「そうですか」で終わってしまう。 
"帽子:「陽炎を数える旅や」自体が、個人的には好みではありません。やっぱり「旅」という字がはいってるのがつらい。どうしても「おポエム」になってしまう気がするんですね。そうなると中七の「や」切れも、なんとなく無自覚な俳句ぶりになってしまうような気がして。
だからむしろ、「老夫婦」を残しても「旅」を棄てたい(お題だから無理だけど)。老夫婦が陽炎を数えるの図自体はかなりいいのではないでしょうか。
とにかくこのままでは、「実力のある俳人が、お題に縛られてしょうがなく俳句にした句」って感じがするのですね。
あずさ:老夫婦と言うと、大野一雄先生の舞台を思い出します。亡くなられた奥様がステージにお花を届けたことがありました。先生が奥様の手を引いて舞台の上に登らせて、奥様の肩を抱いて客席に向かってお辞儀をされた。美しかったです。若い人(70歳未満?)がやったらクサくて見ていられないと思うのですが、二人合わせて180歳近いお二人だったからこそ、絵になったのだと思います。この句、わたしは特選に採りました。<旅>はたしかに余計かもしれないけど。
満月:うん、これは図としてはいいと思うんだけど、「旅+老夫婦」が絵葉書にしてしまったようですね。私が「いいですね」と書いて採らなかったのも、その絵葉書に、例えばうちの両親なんかがぴたっとはまって、実景はとてもいい。底に醸し出される心情もいい。でも俳句として採るのは二の足を踏む、ということでした。「陽炎を数える」は好きなんだけど。。

8点句

旅行鞄大きくあける月の下   満月

特選:隆 秀人 薫 一之 すやきん 凌 来夏 

秀人:ストレートで力強い。素直でおおらか。哀愁もユーモアもある。思わず自分の口を開けてしまった。
凌:旅のための旅行鞄ではなしに、月をまるごと入れるに必要な大きさが旅行鞄だった。いや満月を旅の土産にするつもりかも知れない。
杉山薫:「月の下」が惜しい感じ。情景が好き。ありがちだけど。
来夏:旅先でのことでしょうね?旅行かばんに詰め込んでいるものが気になります。
すやきん:家出して、夜中にカバンを開けて探し物は下着でしょうか?野宿しているのでしょうね。
帽子:ただごと。ちなみに<月>は秋の季語。
一之:「下」は言わずもがな。「春の月」ならば特選クラス。
隆:上五の「旅行鞄」は「旅鞄」でよいのでは、あえて字余りにする必要はないのでは。月の下のイメージにひかれました。

月朧眉だけやさしい男かな   室田洋子

特選:朝比古 斗士 谷 秀人 亜美 満月 万作 

朝比古:「眉だけやさしい」・・・。本当は全部やさしいんだろうな。
秀人:物語的なところが好み。大人の男女の逢瀬の情景。女もけっこう冷酷かも。
亜美:やや甘いが、このような男に騙されてしまう感じは分かる。
古時計:今時、優しい男が多い中で眉だけやさしい男って、どんな男なのか想像をかきたてる。
谷:「眉だけやさしい男」でどうにか成立した。「月朧」は舞台の作りすぎ。
満月:あ、これいい。朧の月と眉のやさしい男と一緒にあるなんて、しあわせでしょうがなくさせてくれる。これはきっとまるい月。このさい「三日月のような眉」という表現があるのは忘れてしまおう。眉だけしかやさしくないのだから。
斗士:「男」の捉え方が新鮮だった。場の雰囲気も見えてくる。
帽子:これは形が悪い。中七をダサい字余りにしてまで使いたい<かな>だったのだろうか。「眉ばかりやさしき男おぼろ月」(「男月朧」だと漢字が続いて鬱陶しいかもしれないので)ではどう? 口語脈にしといて<かな>だけは俳句にすがっちゃおうという手は成功率が低いと思う。
あずさ:眉以外は悪役商会並か? そうとうアンバランスな顔に違いない。
健介:すっかり拗けてしまった私に言わせて戴ければ単に“のろけ”ですね。

てがふっとてがそっとてが梅の蔭   満月

特選:明虫 特選:青 健介 ぴえたくん けん太 あずさ 逆選:一之 

明虫:手のうごきがチラチラ見えて、ひらがなの「て」が生きて感じられました。
古時計:梅にだんだん惹かれていく様がうまいですね。
ぴえたくん:ちょっとクドイことと、「て」を「手」か「掌」の漢字になさる方がよくない?とも感じますが、白梅の芳香が匂うような純愛にひかれてしまいました。天平ロマンだわん。
けん太:この句の「て」って不思議な色合いですよね。そのアイデアに1票です。
摩砂青:リフレインの優しさを買う。ひらがながきれるとこまでに、色気を感じます。
帽子:下五が安易。
あずさ:この<て>は手だろう。この手は、美しい手だろう。舞を舞っているような手だ。舞子は美しい手の持ち主であらねばならない。
健介:こういう「て」の遣い方、永いことしてないからなぁ……(関係ないんだけど、むかしオールナイターズに“梅林寺”とかってひといましたよね)
つっこみ!
ぴえたくん:これは、誰も選ばない、これはわたしひとりのもの、と思っていたのに、高点でした。選句結果には選ばなかった方のご意見はちのさんの「下五が安易」だけでした。選ばなかった方のご意見をもっと聞いてみたいので、どうぞ、よろしく!
「下五が安易」とおっしゃるちのさんならどんな言葉になさるのかしら?
帽子: 「下五が安易」と書いたのは、この句と「旅行鞄大きく開ける月の下」だったでしょうか。どちらも印象的でシンプルな上五中七の下に「AのB」という場所を表す語を持ってきてる。Aは季語であり、Bはその季語との位置関係を表す語。俳句でよくある「AのB」にはたとえば「西日中」「炎天下」などがあって、どちらも「中」「下」が音数合わせみたいな気がしてしまう。「の蔭」「(の)下」「中」は、ただ合わせるだけでなく、その副作用として、そのパート以外の12音との切れをなくして、ただの状況補語みたいなものになってしまうわけです。その感じがどうも苦手。さらに、「…のかげ」という大和言葉が短詩形にはいっただけでかなり糖度が増す気がするんですね。ぼくだったら、思い切ってバカみたいな句にして乾かすほうが好みです。
<てがふっとてがそっとてが梅の花>
ね。バカみたいでしょ。意味も違うし、ぜんぜんよくないかもしれないけど、ぼくは詩歌音痴なのでこれくらいバカっぽいフレーズのほうが親しみが持てる。それはそれとして、句評には書かなかったけど、この上五中七もつらい(あくまで好みの問題だけどね)。あまり音の繰り返しが好きじゃないのかもしれない。なんか読者にたいする作為的な甘えと云うか、「あなたも詩歌を読む人間なのだから、こういう反復音の呪術的効果を目にすれば、古代から根源的に日本人の深層に存在しつづけている言語感覚を覚醒させられるでしょ?」と言われて観念的にひとくくりにされてるみたいで、「ごめん。おれ古代の心を喪失した貧弱な現代人なの」と逃げたくなる。このへん、べつの「ふらここに」のtreeにも書いたけど、宮澤賢治のオノマトペがスゴイとかって吉本隆明あたりが言ってるの見ても「なんで? ただ幼稚なふりしてるだけじゃん。ダマされんなよ。あんなの子役の演技だよ」と言いたくなる心境に近いです。反復音の句は自分でも作ることあるんだけど、作ったあとやっぱり後味悪いのね。「ああ、媚びてしまった」って。自分で作りながらほんとにいいとはなかなか思えないです。
ぴえたくん:わたしはこの「梅の蔭」がいたく気に入っています。上中下、と言う位置と、蔭ではずいぶん違うようにわたしは思います。梅の下のことやん、と言われればそれまでですが、この「蔭」と言う語は、単に「下」を位置している語ではなく、身を隠す盾としての梅の存在を示しているとわたしは解釈しています。
<てがふっとてがそっとてが梅の花>
うーん。。。これでは乾きすぎではありませんか?(^.^)ちのさんは短歌っぽいのがおきらいでしたよね。でもって、短歌の手法を取り入れて句作なさるのは、かの御方でしたよね。わたしは俳句を選んでいても自然と短歌風を選んでいるのかな。「陽炎を数える旅や老夫婦」も「旅人のすれ違い続ける春障子」も実景よりもその「光(カゲ)」にひかれて選んでいますから。
(帽子:あまり音の繰り返しが好きじゃないのかもしれない。なんか読者にたいする作為的な甘えと云うか)
これはわたしも賛成です。自身の体験として、反復は逃げだと実感しています。選句評にも書きましたが、この句の反復はくどいと感じました。
ちのさんはこの句の反復音に呪術的作為を、わたしはくどさの中に微笑ましい滑稽味を感じました。選句評を拝見して、わたし以外の方の選と自分の受け止め方に何か違うものを感じていましたが、すっきりしました。
帽子:ある程度違うのではないか、とは思いつつ、敢えてひとからげに論じてみました。ぴえたさんのご指摘どおり、「かげ」となると、そこに「肉体」とか「主体」が絡んできますね。となると…
(ぴえたくん:<てがふっとてがそっとてが梅の花>うーん。。。これでは乾きすぎではありませんか?)
こうなると、もう好みの問題なのですが、「詩」より「俳」が好きなのだと思います。
(ぴえた:ちのさんは短歌っぽいのがおきらいでしたよね。)
嫌いというより、わからないんですね。というか「詩歌」的になると、どうも敷居が高い気がして。「詩」も「(短)歌」も「ウタ」でしょ? ある意味「音楽」なんですね。ぼくは音楽はインストのほうが好きだったりする。もちろんカラオケ行くのは大好きですが。「うたう」には「謳う」という側面もあって、たとえば「青春を謳歌」とか、「あの商品は、お買い得をを謳っているが、けっこうムダだ」とかいうふうに使う。つまり「うたう」ことには「主張する」側面があるんですね。主張が叙情・詠嘆と結びつくと「歌う」「詠う」。これが詩歌なんでしょう。いっぽう俳句や川柳は「句」って言うでしょう。「句」は英文法では、「文」や「節」よりも小さい単位で、つまりそれだけでは文にも、従属節にもならない、不完全な言葉の「パーツ」なのです。ある意味では、辞書に載ってる熟語とか慣用句の見出しみたいなものが俳句なのだと思います。もちろん575形式でものを主張することはできる。交通標語などキャッチフレーズに575形式が使われてますからね。つまり逆に言うと、575で「主張」すると標語になってしまうということです。
だからといって「実景」主義者ではないですよ。語の表層が第一だと思ってますので。575形式で短歌的に作ると、つまり575で「歌(詠)う」と、「感情の標語」「詠嘆の標語」「<わたし(の自己イメージ)>のキャッチフレーズ」になってしまわないだろうか? と思います。短歌では情感の「余情」が発生し(語の意味から短歌的「思い」の世界が立ちあらわれる)、俳句では意味の「余剰」が発生する(17音を手がかりに読者が好きな意味を付加する)のかもしれませんね。
(ぴえたくん:ちのさんはこの句の反復音に呪術的作為を、わたしはくどさの中に微笑ましい滑稽味を感じました。)
「梅の花」じゃ滑稽味がくどいかな?
ぴえたくん:わたしはどうも自分の本音を内緒にしすぎているようです。自分の受け留め方と、少し昨夜のコメントの補足を書こうと思います。
わたしには「てがてがてが」の反復の効果は実景をかき消して、合いの手を入れながら読んでしまうと言う実景とは正反対の事態を招いていました。だから楽しくて面白くて、コントの様に感じていました。で、このコントを選ぶ人はいないだろう、と思っていましたのに、選ばれた方は誰もコントだなんて思っていらっしゃらない、どころか美しい情景と捉えていらっしゃるからびっくり(゚.゚)
男同士みたいなカップルが、わいわい話しながら梅林を歩いていて、見ている人には友人同士にしか見えない、でも、実は、ふっと、そっと甘い行為もちらちら含まれていて(わたしにはそれが微笑ましく楽しく滑稽に見えてしまう)そんなふたりがひょいと梅の蔭に隠れて瞬時ロマンティックな数秒を過ごしている、純愛だわん、梅は絶対白梅、天平ロマンだわん、と勝手な解釈をしておりました。
上記の解釈ですから、「てが」の反復と「梅の蔭」はわたしの中では場所・位置的にまったく切れていました。ですから、ちのさんと同じく状況補語と受け留めていても、全体にはかからなかったのです。
*<てがふっとてがそっとてが梅の花>
「てが」の反復をコントと受け取っていたわたしにはオールコントになってしまうので、乾きすぎと感じた次第です。
(帽子:だからといって「実景」主義者ではないですよ。語の表層が第一だと思ってますので。)
はい。もちろんです。たまたまわたしが選んだ作品は実景と捉えられやすいようだ、と思って書き加えました。失礼いたしました。
(帽子: 575形式で短歌的に作ると、つまり575で「歌(詠)う」と、「感情の標語」「詠嘆の標語」「<わたし(の自己イメージ)>のキャッチフレーズ」になってしまわないだろうか? と思います。)
なっています!ちのさん上手におっしゃいますねっ!
(帽子:短歌では情感の「余情」が発生し(語の意味から短歌的「思い」の世界が立ちあらわれる)、俳句では意味の「余剰」が発生する(17音を手がかりに読者が好きな意味を付加する)のかもしれませんね。)
これは感動です。いろいろ俳句と短歌の違いが書かれているのを読みましたが、ちのさんのこの3行に勝る解釈はありませんでした。ありがとうございます。
(帽子:「梅の花」じゃ滑稽味がくどいかな?)
「てがてが」の滑稽味と「梅の蔭」の情感がぶつかってわたしには意味の余剰が発生していたのだと思います。「てがてが」を甘く美しく受け留めていれば「梅の花」の滑稽さとぶつかって、うん、ちょうどいい乾き具合ですね。
そろそろ作者さんご登場でしょうか?(^.^)
「あの御方」です:いやあ、みなさんにこんなに熱心に読まれてうれしいというか申し訳ないというか、、、、。あのう、、、もう言っちゃっていいかなあ。。。元ネタ。。。
えっとお・・・あのう・・・・
あわおどりとどろぼうさんの抜き足差し足。だからめっちゃ笑い転げながら書いたんで、最後になって、そのまま「俳」にしたらずっこけておわりだからそれも読者に悪いなあ、、と。。。で、「短歌的手法を取り込む」をやっちゃった。「蔭」も自分で書きながらあんまりだあっと笑ってしまったんだけど、こうまでマジでアレルギーを示されると、「はい、おおまじめで書かせていただきましたのでございます。アンタッ、なにごちゃごちゃぬかしてんのよ!」くらい言わなきゃならなかったかと。。。いや、そりゃ無理だ(さらに笑いは続いてしまうのでした・・・ほんとにごめんなさい・・・)
それにしてもお二人のやりとり、すごくおもしろかったです!
ぴえたくん:ぴえも踊りそうだったよ〜御方ご自身が一番、選んだ皆さんの評にびっくりなさったんでしょうね。
あずさ:あらら、という展開ですが、この句、わたしは「てふてふ」を思い浮かべた。「て」が「ふ」っと。だから美しい舞だと思ったのに。。。抜き足差し足も、面白いけど。
「あの御方」です:いや、解釈はいろいろどうにでも出来るから、ということで出句するわけです。そういう美しい読みももちろん出来ることを想定しているわけですから、お好みに読んでください。従って大アレルギー読みも歓迎なのです。ついでに・・これも書いてしまおうかなあ・・・。あのお、、、、「蔭」が出てきたイメージは・・・・その・・・・・・・・・・出歯亀・・・・・・失礼しました。
しかし、このように「おうた」っぽい感じの仕上がりになってしまうとどういう反応が来るのかなあ、というのが第一の興味でした。また、お歌的仕上がりについしてしまう最近の私自身がいるわけで。超ジャンル句会(俳・柳・歌人)に参加していたりすると、そのへんがジレンマと苦しみの始まりになるのも事実です。

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