長い鏡がありまして長い列車が通ります   摩砂青

(サブタイトル:俳句と絵そして具象と抽象)
帽子:(あずさ:この句は、わたしはたいへん気に入っていて、それは、やっぱり風景をきちんと見せてくれたからなんです。)
そこが俳句になにを求めるかの違いだと思う。言葉として好きになれたなら、風景なんか見せてくれなくてもいいとぼくは思っているので。これは好みの問題ね。だって風景見せるんだったら写真とかCGのほうが…って思う。逆にどんなに鮮烈に風景見せてくれても、言葉として好きにならなければ採れない。ちなみに長い鏡を長い列車が通るというこの風景つまり内容はすごーく好きです。しかしできあがった句は、言葉として好きではなかったということです。繰り返しますが、この句が俳句ではないと言うつもりはありません。句会に出てきた以上、俳句もしくは川柳として接したつもりです。
さて、満月さんはこの句を採った上で、中也的なフレーズをそこに見て取ったわけです。じつはこの「ありまして」というフレーズは昨年向上句会のべつの句でも使われ、それについてはぼくや満月さんのあいだで、当HP上でいくつか意見が出ました。ぼくの記憶が正しければそのときも中也の話は出たような気がします。ぼくは中也的なものは読まずぎらいで、「読まず」なのでそれが中也の売り文句だという知識はなかったのでしたが(つまり不勉強)、しかし「ぎらい」なだけあって、知識がなくとも中也的なものを嗅ぎ取って避けるというわが動物的勘は正しかった。ぼくはその昨年の「ありまして」句にフォークを感じ取ったのです。つまり、「ありまして」が中也に属する属さないはぼくにとってどうでもいいのであって、中也の「ありまして」もフォークの「ありまして」もその昨年の句の「ありまして」も、なにか共通のもの、なにかぼくの苦手とするものに支えられているというところが同じだという気がしたのでした。以上純粋に好みの問題です。
さて青さんのこの句はどうかというと、それが提示している風景つまり句の内容はあまりにすばらしいと思う。でも「ありまして」なんて言っている。そこでちょっと悩んだのですが、けっきょく採らなかったのは、ぼくは句の「内容」を読んでいるのではなく「句」それ自体を読んでいるのだと思ったからです。
それとはべつにこの7-5-7-5というリズムは、大泉逸郎の演歌「孫」や『水戸黄門』の主題歌や軍歌「戦友」(ここはお國を何百里 離れて遠き満州の)や童謡「どんぐりころころ」(お池にはまってさあたいへん)などを想起させるわけで、採らなかった理由はそのへんにもあると思います。これも純粋に好みの問題です。
(あずさ:俳句をはじめていろんな句会に出てみると、国語の先生も多いけれども、絵を仕事にしている方がとても多い。チノボーさんは、音楽に深くかかわっていますが、出会いの頻度から言うと、やっぱり絵の方が圧倒的に多いんです。で、青さんも絵の方の人なわけだし。)
これはなにを言いたいのですか? 俳句と視覚芸術とが親和性があるってこと?ぼくはそれには疑問です。これから書くことは「長い列車」の句とはとりあえず切り離してください。一般論です。
べつの句会とかで体験したことなんだけど、あずささんのいう「絵の方の人」の俳句は信用できないって体験が多かったんです、ぼくは。青さん満月さんのいるtreeでこの発言は問題発言かもしれませんが。
「絵のほうの人」であることが俳句に影響するかどうかはきっと個人差があると思うけど、「絵の方の人」の俳句や俳句観にがっかりした体験がじつは多いもんで。べつのところで視覚芸術系の人の俳句や俳句観・言語観を見ていて、「あー、この人視覚芸術のセンスはともかくとして、言語感覚はびっくりするくらい素朴なんだなー。思いのまま書けば<個性>とやらが出ると信じてるのねー」と思わされることが何度もあって、やや「絵の方の人」の俳句には用心している。つまり、絵とかそういう視覚芸術には技術や修練が必要であることをだれよりわかっているはずのそういう人たちが、言語表現にたいしては技術や修練といった概念を放棄しているのではないかと思わされることが一度ならずあったもので(うがった見方をすると、言語にたいする甘えや蔑視すら感じてしまう)。
あずささんの意見が「絵の方の人」の句にたいするプラスの先入観とすると、ぼくのはマイナスの先入観つまり偏見かもしれない。
(あずさ: あ、考えたら、チノボーさんの好きな音楽はメロディーよりも、むしろリズムだったりしますか?)
両方です。いちばんだいじなのは編曲です。
満月:はい。「絵の方の人」です(^^;。
絵を描く人全部がそうかどうかはわかりませんが、私には、見るもの聞くもの触れるもの、すべてが視覚情報に変換されてしまう、という脳のヘキがあるようです。たとえば子どもの頃作文をしていて、「この辺にこのくらいの大きさの青いまるがあって、こっちには黄色いながしかくがあって、あのへんにピンクの小さいしかくがあるから、このへんに小さい赤い三角が欲しい」とか思ってその部分を書き足す。と、「できた」となる。こういうことは多分視覚的な志向性が高くない人にはおこらない現象でしょう。
絵を描く人が俳句に惹かれやすいというのは、そういう視覚情報に(よりダイレクトに)変換しやすい要素がある句がとても多いことが原因ではないかと思えます。が、画材と言葉は違う。使用法や表現に腐心してきた画材や絵筆、それらが扱う色そのものやその組み合わせ、画材の材質やそれらが作り出すマチエールといったものは、子どもの頃からずうっとものすごく興味があって扱ってきたわけです。で、たいていの人は言葉を素材として扱うということを、絵における画材や色そのものとして受け取れていないのではないか、と私も思います。逆に、そういう手段を一方に持っているから、別の「遊びとしての表現」に対してはかなり素朴でありたいという気持ちも、かつて私にはありました。
私の場合、いろいろなことがあって、言葉を言葉そのものの抽象としてではなく、そこに思いっきり鈍感になって意図的に言葉を意味として扱う必要があり、具象的な扱いをするようになったという経緯があります。そのことは自分でわかってやったのですが、言葉を画材ほどばらばらに自分の好きに分解して扱うということが怖かったですね、そのころは。なんだか冒涜のような気がして。それが原因なのか結果なのかはわかりませんが。
絵を描くからといって言葉に対して特別な意識や技術を持っているわけではないし、なんらかの創作をやっているからといって、他種の創作に秀でると決まったわけではなく、そこにはやはり別の感覚・習熟が必要なのだということは痛切に感じます。
「言語表現にたいしては技術や修練といった概念を放棄しているのではないかと思わされる」については個人差があるでしょうが、やはり自分が創作を仕事としてきたことへの誇りが邪魔をするということがあるんだろうなとも思いますね。表現力の過信というか。いっそ創作表現に類することをやらない人の方が虚心に技術の拾得や素材への感心に打ち込むことができるのかもしれません。
言葉というものはしかし、特別なものです。絵なんか描かなくても生活はできますが、言葉がないと生活できない。日常とぴったりくっついていて、そこから切り離すことがとても大変な素材だと思います。前にも書いたように、言葉を意味から切り離すのは言葉を大切にしない罰当たりな行為ではないかと、私も一時は思ったし、それは今でもどこかにあります。
昔は言葉の意味というものが非常に重かったような気がします。ひとつひとつの言葉が示唆する意味や、共通概念のどれとどれに当てられているのか、というようなことを一生懸命考えていた。意味を絶対のものとして考えなければどうにもならない部分もあったように思うのです。
今、とても速いスピードで言葉の概念はうつりかわり、固着した解釈を持っていてはなかなか変化に対応できない時代になってきていますね。そこを積極的に活用することができるかどうかは、個人的な資質もありますが、どのようにその人が生きてきたかも関わってくるでしょう。そこで何を求めるか。
多くの人は言葉を意味でのみ受け取り、そこになんらかの心情を盛り込む、読みとる、という方向でしか詩を考えていないのではないでしょうか。だから雰囲気やムード(同じか?)といったものが重視される。言葉そのもので遊べるほど言葉をいい意味で「おもちゃ」に出来る人恵まれたはそんなにいないんじゃないかと私などは思うのですが。
もちろん言葉で表現行為をする以上、その素材に対して習熟することは必須でしょうが、前に書いたように、そういうことをするのが冒涜のように思っている人は過去の私の他にもきっといると思う。そこをどう、「遊んでもいいんだよ」いや、遊ばなきゃ面白くない、やってる意味がない、というところまで持っていくかは大変なことだと思います。多くの人が「そんなことするくらいなら現代俳句はやらない、キライだ」という方向に行くような気さえする。杞憂ならいいんですが。
私自身はもともと言葉を音の段階から考えるのが好きでしたから、結構意味onlyの接し方から抜け出すことは出来たんですが、かといって意味で書く、読む、ということも捨てているわけではありません。両方やってきただけに、そこの向こうにいる人の意識、こっちにいる人の意識、どちらもわかって、結構つらい。もちろん意味であれ、きちんと素材として厳しく言葉を認識できていればいいわけですが、その場合、言葉にするもとの意識の方に重点が移ってしまうでしょう。その人にとっては俳句は「言葉」のコラージュ的創作ではなく、意識の表出になるでしょう。そこを表現したい人にはやはり「言葉」派より抽象性に鈍感にならざるを得ない面があるのではないかと思います。
どうも思いつくままに書いてまとまってなくてごめんなさい。
帽子:ただ一点。「意味」を言語から切り離すのは無理だと思ってますし、ぼくはそんなことを望んでいるのではありません。そうではなく、たとえばある書き手がこの語とあの語とを組合せたとか、575ではなく7575というリズムを選んだとかいうときに、そこに「内的必然性」とやらがあったとしても、読み手にはそれを斟酌する義務はない、ということです。だってぼくは俳句なり川柳なりを読んでいるのであって、「ポエム」とか私小説を読んでいるわけではないのだから。ということで誤解を恐れずに書くなら、ぼくが黙らせたいのは、「意味」ではなく「意図」です。だから、
(満月:その人にとっては俳句は「言葉」のコラージュ的創作ではなく、
意識の表出になるでしょう。そこを表現したい人にはやはり
「言葉」派より抽象性に鈍感にならざるを得ない面があるのではないかと思います。)
3行目は、悪意に満ちた千野としては <「言葉」派より「言葉の肌理(きめ)」に鈍感>と読みました。向上句会の「全体的な感想」欄でしばしば受ける「意識表出派」からの「防御を装った攻撃」にたいしては、これからも執拗に「攻撃のかたちをとった防御」を散発的にやっていこうと思います。
(満月: どうも思いつくままに書いてまとまってなくてごめんなさい。)
いいえとんでもない。ぼくの暴言に丁寧にお答えくださって、ありがとうございます。満月さんは両サイドを見渡せる度量をお持ちで、これは言ってみれば通訳とか変圧器とか両替所みたいに、複数の違うものをそれぞれに置換できる能力だと思います。身近にそういう人がいると、ぼくも違う立場の人の考えを推察できて助かります。自分だけでは固陋になってしまうので。
参考までに、年6月、向上句会「つっこみ句会」における発言。問題の句は「ヒヤシンス不整脈などありまして」という句で7点も取った。(こちらをご覧ください。)
帽子:ちなみに、ぼくががっかりさせられたという「べつの句会」とは、複数ありますが、向上句会でもなく、東亞俳諧公司(ぼくのHPの通信句会)でもありません。念のため。
あずさ:(帽子:いちばんだいじなのは編曲です。)
チノボーさん、なんかスーパー納得しました。今までチノボーさんが俳句に関して言っていたことが、とてもよくわかるような気がします。わたしは、俳句と視覚芸術の親和性を感じています。わたしの書いた文章が、視覚芸術家との親和性という風に読めてしまう文章だったので、誤解を招いたと思うのですが、絵を職業にしているひとの俳句を見て、ということではなくて、俳句というのを見ていると、絵的だなぁと私は感じ、ふと回りを見回すと、絵を職業にしている人がたくさんいた、ということです。一つの句とその句の作者の職業という話ではないです。
(満月:いっそ創作表現に類することをやらない人の方が虚心に技術の拾得や素 材への感心に打ち込むことができるのかもしれません。)
私が思うにチノボーさんは、山下清嫌いなんだと思う。およそ知性のないものをそもそも許せない。この感覚はわたしにもよくわかる。わたし自身はどういう句を書くかというと、わたしは基本的に言葉の「意味」ですね。だから俳句そのものの勉強をぜんぜんしていない。俳句そのものよりも、わたしは養護施設出身者がどんなことを言うか? 幼児虐待されてサバイブしている人がどんなことを言うか? に興味がある。これはどうしようもないです。勉強不足を言われても、今のわたしには時間的な余裕が皆無。手一杯なんだ。
で、わたしがどんな俳句を書きたいか、というと、それは「人を傷つける俳句」。特定の個人ではなくて、養護施設出身者でもなければ、幼児虐待を受けてもいない幸せな人をすべて傷つけるような俳句です。わたしにとって、俳句を書くことは暴力なのかもしれない。これは、あくまでも書くときの話です。選句となると話は違ってくる。じぶんの仲間探しは基本的にはしていない。(←いねぇーよ。)
そういう意味では、わたしはどんな句でもオッケーです。ただ、まじめに創って欲しいというのはあります。それが意味であれ、形であれ。あと、好みというか、芸術を鑑賞するときに、わたしは音楽の聞こえる絵画をいいと思い、絵の見える音楽をいいと思う、というのがあります。
<長い鏡がありまして長い列車が通ります>
<ヒアシンス不整脈などありまして>
わたしは<長い>の方は<ありまして>が気にならなかったんですね。
これに対して、<ヒアシンス><不整脈>という体温の低い言葉に、<ありまして>という言葉が非常に生温く感じられた。つまり、他の人の座った座布団に<ヒアシンス>と<不整脈>を座らせたような感覚です。
<長い鏡><長い列車>に挟まれた<ありまして>という長いフレーズは、わたしとしてはかなり収まりがよかった。不自然ではなかったのです。
俳句か俳句でないかという話をはじめると、わたし自身がいわゆる俳句を書いている自身(あるいは自覚)がまったくないもので、何とも言えなくなってしまうのでした。
帽子:あずささん、レス多謝です。この話題、おとなげないから、ほんとはうちのHPのほうが向いてるんですけどね。でもこっち書いたほうが読む人は多いかなと思うとそれもいいか。
(あずさ:今までチノボーさんが俳句に関して言っていたことが、とてもよくわかるような気がします。)
うむむ。あんまり深い意味はなかったのですが…恐縮です。
(あずさ:私が思うにチノボーさんは、山下清嫌いなんだと思う。)
うーん、ちょっと違う。惜しいですけど。山下清自体は嫌いではないし、彼の絵に知性を感じないこともない。そうではなくて。「知」というのは、保ちつづけるのにはそこそこの気力がいる。かんたんにいうと、「知」を保ちつづけるということは、いつまでも幼稚な「怖いもの見たさ」を保ちつづけるということだと思っています。これは、体調や気分次第でえらく簡単なことにもなり、またかなりしんどいことになるばあいもあります。で、ぼくが嫌いなのは、「知」を<意図的に>放棄する姿勢なんですね。そうすることによって自分が素朴な無垢な人間であるふりをする態度ね。こういう態度は年齢性別を問わずいろんな人に見ることができる。もっと嫌いなのは、そういう態度を他の表現者にも要求する態度ね。反知性主義を罪のない態度と信じて、自分のことを弱者と信じてるわけですね。で、「知」にたいして敬虔な人間を見ると魔女狩りをはじめる。こういうおかたは、5分ほど話をすれば(またはちょっとbbsで発言してもらえば)すぐわかることが多い。「あっ。敵だ」ってわかってしまう。で、ぼくは大人げもなく叩いてみるわけです(こういうぼくのやり口は、口喧嘩の弱いヤツのすることなんですよね、恥ずかしいことに。笙野頼子のようなケンカの強さが欲しい昨今)。
ぼくは閉じた人間らしく、もし俳句で暴力を揮うとしたら、だれにたいしてか? あまり暴力沙汰は好みませんが、それでもあえて暴力を揮うとしたら…
さるWeb句会で見かけた発言(大意)。
「難しい語は使ってほしくない。瞬時に風景が浮ぶのが俳句の醍醐味なのだから」言語表現にたずさわっていながら、辞書を引くという基本的作業もせずにこんなことをおっしゃるかたの劣等感を死ぬほど刺激するというか、自我の殻をひっぺがしてハラペーニョをすりこんでやれるほどの、言語にたいする知識がほしいです。こんな下品な文を書いているようでは、たぶん一生無理だけど。
満月: 無知と無垢が混同されているというか、すり替えて自分の無知をごまかそうというのか。。。実にそういうことはたくさん転がっていますね。でもチノボーさんのいうフォーク的なものとそれはどう繋がるの?私はフォーク的なものは「刷り込み」だと思っているので、そういう部分が出てくるのは、創作意識に乏しいというか、無自覚である結果のような気がしますが。意図してそれを出すことで無垢を演出するというところに入ってますか?フォーク的なものって無垢のイメージ?・・・世代が違うのかなあ、ちょっとその辺わからないです。中也にしても無垢と思われているのかなあ、一般に。。。あたしは喰わせもんだと思ってますが(^^;(だから喰わせもんとしてそのへんを使う分にはいいのよね、パロディで。)むしろ許せないのは宗教的な「ありがたや節」みたいなものを書くと自分の純真さが裏付けできるとでも思っているかのような表現ですね。それが免罪符になるとでもいうかのような。雰囲気的なものでない切実な宗教で生まれ育ってきた身には、そのへんけっこうきついもんがあります。
(帽子:自我の殻をひっぺがしてハラペーニョをすりこんでやれるほどの、言語にたいする知識がほしいです。)
あっはははは。。。
ハラペーニョってそんなに刺激的なの?これは辞書ではわからないぞ。あとでWEB検索してみよう。(味見してみたいけど我が家はピリカラ御法度だしなあ。。)それはおいといて。愉しむためにすべきちょっとした努力もせず、むこうから自分の今のレベルに合わせてくれという言説が実に多いですね。でも逆に高度な知的レベルに合わせなきゃ読めないとなると、これは実際に知力に乏しい人には難しいのかもしれない。。普通人が「むずかしい」とか「知的に高度」とか言うのはかなり低いレベルだといつも感じているので。もっとも問題は知力より好奇心なんだけど。そちらが乏しい人の方が多いか。。・・・うーーん、でも好奇心って「奇を好む」と書くのね。。